「長崎」という土地に足を踏み入れたのは、
高校の修学旅行以来でした。ですので、ほぼ初めてです。
土地独特な空気というのはどこにでもあると思いますが、それは
土地に根付いたお祭りや、作物や料理から感じることが多いように思います。
長崎は土地の独特さが町全体から匂ってくるような、不思議な町でした。
長崎に到着したのは、8月8日の早朝。
その日、長崎市公会堂で新作能『長崎の聖母』を拝見いたしました。
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新作能『長崎の聖母』
2010年8月8日(日)@長崎市公会堂
作:多田富雄
シテ:清水寛二
ツレ:谷本健吾・伊藤嘉章
ワキ:殿田謙吉
アイ:野村万禄
笛:松田弘之
小鼓:飯田清一
大鼓:白坂信行
太鼓:助川治
地謡:山本順之・西村高夫ほか
グレゴリオ聖歌:純心女子高等学校音楽部
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《「新作能」は「能」なのかどうか》という論議は時々出てくる話ですけれど、
私個人は「新作能」は「能の形式を取っている演劇」と考えています。
そういう意味で、今回の『長崎の聖母』は新作能として
しっかり一本立ちしており、内容も演出も大変興味深かったです。
シテの本性はマリアとも原爆者の霊とも取れるような、
敢えてはっきりしないかたちで描かれており、
観るものにそこをゆだねられているのがすばらしかったです。
私は原爆体験者でも戦争体験者でもありません。
私の目にはシテはマリアに観えましたが、
きっと体験された方の目にはまた違って映るのでしょう。
鐘の音やグレゴリオ聖歌を組み込まれたのも、なかなかでした。
ワキやアイの台詞の後や退場した後に入るそれらは、
演出の邪魔にならず、むしろ曲全体を引き立てていました。
シテが舞を舞っている途中で、囃子・聖歌・囃子とBGM担当が
移行していくような部分がありましたが、この部分だけは
私自信が普段お囃子に興味を持って能を観ているためか、
聖歌から囃子に移る打ち出しに違和感を感じました。
また聖歌隊が最初に音をとるために鳴らす電子音は、突然現実に引き戻され、
最も盛り上がるところで携帯電話が鳴ったような興醒めさがあります。
舞台上には大きい十字架が飾られており、その背景には、
ろうそくの揺らぎのような照明イメージがありました。
この照明は、キリスト教の祈りの灯にも見えますし、
仏様が背にしているレリーフの形にも見え、複数の宗教が
根付いている長崎らしさを感じます。
ワキの弔いでシテが成仏し「めでたしめでたし」と曲が終わることはなく、
脅威を物語り、悲痛に苦しむような表情を浮かべたままシテが去って
行くのがとても印象的でした。
原爆の脅威を直接的に表現したものとは異なる、
その場にいた人が心底求めた救いを感じる舞台だったように思います。 |