響の会〔清水寛二・西村高夫〕
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「響の会通信 vol.5」2004年6月発行
●コンテンツ
寄稿: 笠井賢一氏「源三位頼政伝」
レポート: 第21回研究公演(04/4/2)アンケート
レポート: 響の会の集い(04/5/9)レポート
寄稿: 野地晃氏の和歌で綴るヨーロッパ公演レポート
  【寄稿】笠井賢一氏「源三位頼政伝」
 源頼政(1104〜80)は平安時代末、摂津源氏を始祖とし、満仲からは嫡流として六代を数える名門の出である。しかし、その時代源氏の中心は、頼信からはじまる河内源氏の頼義、義家、為義、義朝という流れであった。
 保元元年(1136)の保元の乱では源義朝とともに大半の源氏の一族とは別行動をとり、後白河天皇に味方した。しかし恩賞は受けることが出来なかった。
 さらに平治の乱(1159)では義朝とともに信頼側につき、信西誅滅の後は離反し、清盛側についた。そして義朝の軍を六条河原で防ぎ、源氏でありながら平氏に味方するのは恥ではないかとの義朝側の非難に対し、武人として天皇に仕えることが義務であり、帝に弓を引く義朝こそが賊臣であると応酬した。しかし、この折も昇進はなかったという。この時すでに五十半ばである。源家の宗家という意識もあったであろうし、常に義朝とは一線を画した行動をとっていた。とはいえ、一族郎党合せて百騎余りという弱小さではあった。
 これだけを見ても、頼政が平家全盛に向う世にあって、生き抜いていくうえで多くの曲折があったことが想像にあまりある。

  人知れず大内山の山守は
   こがくれてのみ月を見るかな

という頼政の、代々大内守護の職にありながら昇殿を許されないことを嘆いた和歌によって仁安元年(1166)、正五位となり昇進が叶い、それからは順調に官位があがっていく。
 頼政は歌人として藤原俊成をして「今の世には頼政こそいみじき上手なれ」と言わしめる名声があり、貴人たちとの和歌を通じての交わりがあった。このことが、和歌によって昇進したといわれる説話を生み出す。
 『平家物語』の鵺の段でも先の歌と、

  のぼりたるたよりなき身は木のもとに
   しゐ(四位)を拾ひて世を渡るかな

の和歌を引き、この歌によって従三位になったとする。
 この『平家物語』の鵺退治のエピソードそのものも、宮廷警護の武人頼政の名声と、歌人としての高い評価とを合体させることで、、文武両道の頼政像が作られた可能性が高いとされているものなのだが、実際は皮肉なことに頼政を従三位に推挙したのは平清盛であった。このことに対して右大臣九条兼実は日記「玉葉」の中で、清盛を褒めるとともに頼政の破格の昇進に「時人耳目を驚かさざる者なし」と記している。頼政は公卿の仲間入りをしたのだ。以仁王の挙兵の二年前である。
 いわば功なり名遂げた頼政が何故、早すぎる反乱を起こしたのか?「平家物語」では息子仲綱の秘蔵の名馬「木の下」を宗盛が無理に奪い取ったことを原因としているが、これも後からの理由づけめいていると考えられる。むしろ以仁王の方にこそ閑院家という名門を背負って新興の平家一門の高倉天皇、安徳天皇という流れを断ちたいという望みが強くあった。治承三年(1179)11月の清盛のクーデターで父後白河が鳥羽院に幽閉されたことに加え、自分の領地をも奪われてしまったことによってさらに追い詰められていたことが決定的であった。頼政はこれまでの以仁王との深い縁から行動を共にしたものの一族の全滅をさける配慮をしている。そして、この早すぎる蜂起に勝算があるとすれば以仁王追補に息子の兼綱や頼政自身も加えられていたように清盛に絶対的に信用されていたことである。清盛の信頼を背後に、土壇場で清盛の首を取ることも考えていたのかもしれないという推測を水原一氏はされている(新潮古典集成「平家物語・上巻」)。
 しかし事態はそのように展開しなかった。頼政は家に火を放ち、以仁王を追った。そして宇治橋の激戦に息子たちを次々と討たれ、その有様の一部始終を目の当たりにして自刃した。

  埋れ木の花咲くことのなかりしに
   身のなるはてぞかなしかりける

と辞世を残して。
 鵺の如き生き方を余儀なくされ、また、それを楽しみもしたかもしれない、したたかな文武の人頼政が、生涯の終りの77歳という年に、勝敗を度外視した反乱に加担することが果たしてありえるのか。

  花咲かば告げよと言ひし山守の
   来る音すなり馬に鞍おけ

この和歌は能「鞍馬天狗」にもとられている、いかにも頼政らしい、武門の人の行動と歌のリズムが一体となった秀歌だ。
 頼政は生涯の終りに、和歌という花を愛でる自分を断ち、武人としての花を、それが死に花であることを承知の上で、馬に鞍を置き、最期の疾走をしたのだった。
 
 頼政の自死からおよそ二百五十年後、齢70に及んで−子ながらも類なき達人であった−十郎元雅を先立てた世阿弥は、『夢跡一紙』に

  思きや身は埋れ木の残る世に
   盛りの花の跡を見んとは

と悲痛な歌を詠んだ。
 この歌は頼政の辞世と響き合う。
 不遇をかこつことの多かった晩年の世阿弥は頼政の生涯と辞世に、自らの生を重ね、老体の修羅を創り上げた。
  【レポート】第21回研究公演(04/4/2)アンケート/響の会の集い(04/5/9)
 去る4月2日に行われました響の会研究公演(能「雲林院」シテ・西村高夫)には多くの方々のご来場を賜り、大盛況のうちに終えることができました。ありがとうございました。
 ご協力いただいた公演アンケートでは、「桜の季節にあった演目で、静かで華やぎのある舞台だった」といった感想を多くいただきました。「シテの方の舞を見ている間、今の日本が日本の心を忘れてしまっているのではないかと思いました。もっと日本人、特に若い人達にこのような能を見てほしい」という感想もいただきました。今後も引き続きアンケートへご協力よろしくお願いします。
 ここでは、第21回研究公演アンケート、5月9日「響の会の集い」からのご質問やご意見をごく一部ですが、合わせてご紹介いたします。

■『後見はなぜ二人いるのですか? また、それぞれに違った役割があるのですか?』
…後見には、進行を補助するという役割があります。また、装束の着付け・物着などは前後二人が最低単位でやりますし、全体の進行・作り物の出し入れ・小道具の受け渡し等二人で分担するのがスムースです。観世流では舞台に向かって右側が主後見です。主後見が主となって、具体的な仕事はそのたびごとに相談して決めています。大事な曲や仕事の多い曲では三人のときもあります。

■『外の騒音が聞こえるのには、少しがっかりしました』
…確かにホールなどの大劇場でのお芝居を見慣れた方には、外の音は気になるのかもしれません。
しかし、お能はもともと屋外で上演されていたものですし、むしろ(曲にもよりますが)逆に外の光などをとり入れた中で上演することがあってもいいのではないか、と思っています。刻々と変化する陽の光と影は、舞台にあたらな発見を生み出してくれるのではないでしょうか。
 また、その外の騒音が気にならないくらいに集中した舞台を作っていきたいと思います。

■『一つの番組を同じ顔ぶれで連日公演しないのはなぜでしょうか? 見逃すことが多く残念に思います』
…能舞台では、最初から最後まで極度の集中力を必要としますので、同曲を連日公演するより、一日に全てを懸けた方が良さはでると思います。
 単に連続的に公演をしても、集中力が落ちたり惰性に流される危険性が出てくるように思います。
 それにしても、まずは連続公演をしなくてはならないほどお客様がいらしていただければいいのですが。

■『冠に桜をさすのは、特別な演出ですか?』
…これ自体に演出としての特別な名前はありません。この冠にさしたかざりは「心葉」と呼ばれています。演出というほどではありませんが、やはり「花やかさ」や「ある種の高まり」が感じられるような気がします。皆様はどうご覧になりましたか。
 このように冠に心葉をさすものは、他の曲では「杜若」「井筒」「小塩」「老松」などがあります。
 「杜若」では一応、小書(特別な演出)の時につけることになっています。もともと「杜若」は梅の花をさしていましたが、近年では杜若をさすこともあります。また、小書のときは心葉とともに冠に「日蔭の蔓(糸)」をたらしたり、腰に「真ノ太刀」をつけることもあります。
  【寄稿】野地晃氏の和歌で綴るヨーロッパ公演レポート
 4月9日から21日まで、清水、西村は永島忠侈氏を中心とする一行に参加し、オランダ・ベルギーの7都市を歴訪、各地の音楽演劇フェスティバルでの公演は好評を博しました。清水、西村とも一回ずつ「葵上」のシテをつとめました。
 ここでは、今回の公演で舞台監督を担当された照明家の野地晃氏(昨年の座間市宗仲寺ろうそく能や結城での「一石仙人」でもとてもよい照明を作っていただきました)が、期間中にお詠みになった和歌をご紹介します(当方で12首選ばせていただきました)。巡業の情景を思い浮かべながら、お楽しみ下さい。

訪はむ都市まだ一つ探し得ぬ 地図もち春のオランダに発つ

オランダの人と組みゆく能舞台 かたへにシテ方松ととのえぬ

照明を合はすと小袖を真似て寝る 能の舞台は仕上がり近し

お調べの息継ぎ長き笛方に 誘はれて見所しづまる

初めての能見るひとのまなざしへ まづ葵上の小袖のべらる

中入りのシテ待つ後見幕の端ゆ 舞台見つめぬ呼吸あはせつつ

角かくし出でなむシテの足袋先の 緊まりし時し幕上がりたり

フェルメールの描きし少女に魅入られし 友らと夕の円卓かこむ

赤き灯に裸女なまめける飾り窓 能の役者とそぞろ歩めり

橋がかりの長さは日々に変わるとも ゆるぎなくして能自在なり

オランダの旅も終ると教会の 高き天井ただ仰ぎおり

面箱を携へ乗りし飛行機に 能楽師はや眠りそめつつ
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