響の会〔清水寛二・西村高夫〕
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「響の会通信 vol.4」2003年12月発行
●コンテンツ
巻頭言: 清水寛二「シテとしての能の演出」
巻頭言: 西村高夫「直訳と翻訳」
特集: 若松健史氏インタビュー
「鉢木のこと、書生時代のこと」
寄稿: 金子直樹氏 寄稿
「初心者の視点 -響の会第14回公演を観て-」
レポート: 第19回響の会研究公演報告アンケートから
ご案内: 響の会 平成16年 年間公演予定
  編集後記(長谷部好彦)
  【巻頭言】清水寛二「シテとしての能の演出」
 春の通信で多田富雄先生の新作能「一石仙人」の地謡を謡う事を書いたが、今度はそのシテを舞うことになった。
 「時空は歪み、光さえ曲がる世界のありけるぞ」と説くシテはアインシュタイン。
 「おゝ渺々たる宇宙よな。十万光年の彼方より一千億の星々が……」とスケールが大きく、最後は「すなわちひとつの火球となって黒点に引かれて失せにけり」となるこの作品を大ホールの構造を生かした思いきった演出でいこうと思っている。
 また私の住んでいる座間市の宋仲寺というお寺で「百萬」を舞う。本堂の内陣をそのまゝ舞台として使うので、これも能舞台での上演とは異なった演出を考えている。
 もちろん共に演技としては絶対に「能」である。
 この秋は「井筒」・「隅田川」と上等の能を舞う機会を得、本当に上等な能は舞う者を育てるものだと実感している。また逆に能舞台以外での演技・演出にそれが試されることになるだろうと思っている。
 そして「安達原」。
 作物と舞台の入れ子のような構造、銕仙会の舞台に生きるだろうと思う。
 三尺四方の作物の小屋が、素性も名前さえもわからぬこのシテ――糸繰りの労働歌に源氏物語――の住居であり、寝所であり、そしてそこには死骸が累々と重なり、シテの悲しみも満ちている。
 演技と演出。ともかくも「能の時間」が流れるものでなくては。
  【巻頭言】西村高夫「直訳と翻訳」
 先日、テレビでの日本映画の放映で、耳の不自由な人達への配慮からと思うが、日本語の字幕付きのものがあった。半ば物めずしさから(言葉として失礼かもしれないけれど)、耳から入るセリフと眼から入る字幕のセリフを両方楽しんでいたのだが、いつしか字幕を必死に追っている自分に気付き、加うるに何かしっくりこない心のあり様に気がついた。映画の中での、発せられたその瞬間から消えていくセリフ。字幕として画面に文字化して定着しているセリフ。この両者の隔たりは一体。 
 我々は舞台であれ、日常であれ、相手の発する言葉(セリフ)のエキスだけを瞬間的に取り込んでいる。言葉を“直訳”せず、“翻訳”して、不要なものは取り込まず、必要なものを本能的に取り込んでいる。“下手な翻訳”の字幕と“上手な翻訳”の字幕とでは、同じ映画でも印象がまるで違ってしまう。だからこそ生きた言葉として字幕に定着させなくてはならない。その内容・ニュアンスを伝えるにふさわしい言葉を選ぶ(翻訳する)力こそが必要とされる。
 日常生活では名翻訳が出来ても、舞台を観たりすると、身構えるせいか“上手く翻訳”出来ない。どうしても全てを訳そうとする。“直訳”しようとする。直訳すればそれは台本になってしまう。脳のスクリーンに台本を写してはいけないだろう。翻訳された字幕でなければ。それこそが自分自身の固有のスクリーンになるのだから。
  【特集】若松健史氏インタビュー「鉢木のこと、書生時代のこと」
◆「鉢木」と銕仙会の関わり

 シテは初めてです。昔、寿夫先生がそういう曲はお好きではなかった様なので我々も舞ってないです。自分で舞おうとは思ってなかったですし。ツレはやってます。最近では先代の銕之丞先生(八世静雪)のおシテでツレをやっています。ここの舞台ですね。新しくなってからかな。
 稽古能でツレを何度かしたことはありますが、本番としてはそれだけです。銕仙会自体「鉢木」はほとんど出なかったですね。山口(幸徳)さんとか鵜沢(雅)さんとか私の大先輩にあたる方々の時代に出てるようですね。それ以後あまり出てないです。ただ先代の銕之丞先生はお嫌いではなかったようですね。ですから銕仙会ではされてなくても、地方や他の舞台で舞われていたと思います。それでも他の会と比べるとあまり出てないでしょう。
 雅雪先生は舞われてます。ただ「鉢木」は直面ですから、それが出にくい理由だとも思いますね。寿夫先生の場合はいわゆる世話物的なものをお好きでなかったから。銕仙会の番組も当然そういう寿夫先生の考えに従った曲の選び方をしていました。だから「七騎落」なんかもほとんど出てません。銕仙会は今もそういう曲は比較的少ないですね。我々なんかは寿夫先生に教わっていますから、「鉢木」のような曲を舞うならば、「野宮」や「大原御幸」に行きたいと。それが良いか悪いか別ですけれど。本来どんなものでもやった方がいいですからね。


◆上京までのこと
 
私は西宮の出身です。私の父(若松宏守)も西宮の人です。西宮は大阪と神戸の真ん中でして、父は大阪の方に属して活動していたのです。始めは手塚さんの所で、最終的には上野さんの所で活動したのです。ただ親父は竹谷貞一さんの弟子でした。途中から雅雪先生の教えを受けるようになったのです。その縁で私は銕之丞家に来たのですが。雅雪先生が関西まで出稽古に来られたようです。私が忘れられないのは、雅雪先生のお素人への稽古がありましてね、私がこちら(銕仙会)に入ると父が決めたすぐ後のことでした。一回銕之丞先生に会っておいたほうがいいだろうということで。お素人への稽古を父と二人で並んで見ていたのです。「隅田川」の「南無阿弥陀仏」というたった一句なのですけれどね。その一句だけに、30回も40回も稽古されるのです。「駄目、駄目」と仰って、結局「今日は終わり」とふっと立たれて、引っ込まれてそれっきりなんです。お弟子さんも見台の前に座られて、しばらくじっとしていたのだけれど、結局残念そうにお帰りになりました。そのときは「怖い先生だな」と思いましたね。相手は素人でしたから。これがプロ相手になったらどうなるのだろうと。それが中学3年のときです。私は中学卒業してすぐここに来たのですから。まあとにかく怖い先生だなと思いました。素人の稽古はそんなものだとは思ってなかったですから。強烈でしたね。
父は雅雪先生に気に入られて、よく一緒に飲みに行ったりもしていたようです。私が中学校の作文でね、父の跡を継ぎたいと書いたらしいのです。私は覚えてないのですが(笑)。それを学校の先生が父に見せて、父がそれに飛びついてしまって。「やるなら銕之丞(七世雅雪)先生の所じゃないと駄目だ」ということになって。あっという間に決まってしまいました。能自体は嫌いではなかったのですけれど。子方は割合よくやっていましたね。大阪在住の色んな先生方と舞台をご一緒しました。今となっては(阪神淡路の)震災で番組等も焼けてしまって全く分からないのです。学校をよく休んで舞台に出ていました。お稽古・申し合わせ・本番と、学校に行く暇はあまりなかったです。その方がうれしかった記憶がありますね(笑)。割合喜んでやっていましたね。


◆東京での書生生活

 東京に来て銕仙会に住み込みの書生になって生活が全く変わりました。お稽古が全くないのです。傍らで素人の稽古を見たり聞いたりするだけ。あとは稽古能を拝見したり。最初の1.2年はほとんど稽古を受けていません。ときどき後見で「あれをとって来い」と言われて、取ってくると「とり方がまずい」と怒られたり。専ら掃除ばかりです。その頃は鶏がいたり、犬がいたりで、その世話もしました。ダリアの花が沢山あってね、花が咲いた後球根を掘り出したり、穴を掘って1年間埋めておくとか。本当に雑用ばかりです。でも基本は舞台の掃除です。いかに舞台を使い易く、シテが動きやすいいい舞台にするか、舞台を磨くのが基本でしたね。後は何年かたってから、稽古能でツレぐらいいいだろうということになって。私は雅雪先生の弟子だったのですが、お稽古はほとんど寿夫先生に受けました。雅雪先生では稽古は役が付いたときにお願いして稽古して頂いたものです。寿夫先生は自分から「いつか稽古しよう」と仰って、でもいつだか本当に分からない(笑)。それまでに型付を見たり謡を全部覚えるといったことはしてましたけど。住み込みは私一人でした。先輩には通いの弟子で笛の寺井政数さんの息子基晃という方がいました。昔の「銕仙」にも草深清さんが記事を書いておられますが。蓄膿症の手術中に亡くなったのですが、実際は医療ミスだったようです。まだ大学を出てすぐだったでしょう。寿夫先生は非常にかわいがってらしたようです。その方は通いでしたので住み込みはずっと私一人でした。多摩川からここ(表参道)に舞台が移ってきて、昭和30年くらいかな、その前から私は書生でした。多摩川に昭和26年頃書生に入ってます。ここに来るまでも一人だし、ここに来てからもずっと一人でしたね。私が出るときも後に誰もいませんでしたから。最初入るときは10年の約束だったのですが、後がいないものですから、結局12年いましたね。野村四郎さんが家元のほうで10年くらい書生をされたようです。その頃は雅雪先生より寿夫先生が実際のことは決めておられた様子でしたから。寿夫先生がちょうどフランスに留学しておられて。雅雪先生は「(独立に関しては)寿夫が帰ってきてから相談する」と仰って。それで結局12年になったのです。(山本)順之さん(浅見)真州さんも通いでした。繭の会というのを始めてから北浪昭雄さんも寿夫先生にお稽古を受けました。私の後は浅井(文義)君です。私は雅雪先生からずっと古い形の稽古を受けていたのです。寿夫先生から随分変わってきましたね。寿夫先生も自分が色んなことを言えるまでは全部雅雪先生に従っておられましたが。寿夫先生の方から稽古を付けて下さったのは有難かったです。雅雪先生から私が稽古を受けたのは一回だけです。「熊坂」のシテを私が稽古能で舞うときに、「じゃあお前一回やろう」と仰って。それも突然でした。いつ稽古があるか分からないから、いつでも覚えてないといけないし大変でしたね。必死になって覚えて、たった一回だけ見て頂きました。ですけど、ほとんど間に合わなかったですね。速くて速くて。凄い速いのですよ。謡もよく聞こえなくて。終わってから滅茶苦茶に怒られました。全然間に合わない。「熊坂」は結構型が忙しいので。散々怒られましたね、「何やってんだ」と。こっちは全然間に合ってない(笑)。それ一回きりです。それまでは聞いたり見たりして覚えるだけでね。だから寿夫先生になってからは型付を見せて頂くし、稽古お願いしますという前に「稽古しよう」と言って下さるし。180度変わりましたね。


◆華雪、雅雪、寿夫の三人三様

 教えて頂く型も随分違っていましたね。当時は華雪(六世銕之丞)先生もいらしたから、一番困ったのは華雪先生、雅雪先生、寿夫先生の注意が三人三様で違ったときです。一体当日誰の型をすればいいのだろうと(笑)。華雪先生は私が稽古能でお役を頂いたりすると、終わって「ちょっと来い」と。「これこれこうだ」と言って下さる。雅雪先生は私が自分の弟子だから「なんでこうしない」と仰る。寿夫先生は「何で教えた通りしない」と。三人に「はい」と言って謝るしかない(笑)。もう舞台当日は誰に怒られてもいいから、誰かの型をしなくちゃならない。時々華雪先生の型をやってみたり。でも最終的には寿夫先生の弟子ですから。そういうときは非常に困りましたね。華雪先生は穏やかに物を言われる方でした。でも中身は凄いおっかないんですよ。雅雪先生は口より(拳を上げて)こっちの方でしたから(笑)。後になるとそのことをけろっと忘れてたり。寿夫先生は両方ですね。今思えばそういうことが身になってますね。色んなことを覚えましたから、有難かったなと思います。それぞれの考え方が少しずつ分かりましたから。住み込みだからよく分かったという部分もあるでしょう。華雪先生は穏やかでした。今でも覚えているのは夏歌仙会という催しがあって、36番舞囃子を舞うのですが、ある時囃子が出来なくて100番か200番仕舞をしたのです。その時に華雪先生が高砂の仕舞を舞われたのです。見所で聞いても楽屋で聞いても、同じ声量で聞こえるのです。強いのだけど品があって。色っぽい所もあるし。これが本当の観世流の謡だなと思いましたね。華やかで、品があるし。華雪というお名前にあった芸の方でしたね。雅雪先生は手が早いだけあって(笑)、やることも豪快でした。「安宅」なんかをされると凄い迫力でした。寿夫先生はその両方を受け継いでいらしたから。寿夫先生の謡は一時宝生の野口兼資さんに傾倒されていた様で、少し観世流から離れたごつごつした謡を好まれていたのですが、寿夫先生自身お声は物凄くいいのですね。いくらそっちに行ったって、いい声だからそうはいかない。ただ声だけではない息の謡を寿夫先生は好まれていたのでしょう。観世流は本来音楽的で流れるような謡でしたから、それだけではよくないと思われていたようです。息の謡をしたいということはしょっちゅう仰ってましたね。寿夫先生に怒られたのは、今は謡本にヒラキという∨チェックのような節がありますね。あれは昔位置が決まってなかったのです。私は決まってからしか知らないからその通りする訳です。そうすると「お前は本当に分かってないな、やめろ」と言われて。謡本にはそこでひらくように書いてあるから、でもそれが駄目と言われると分からない訳です。「やめろ」と言われても「何か教わらなくちゃなあ」と思って。非常にそういう所は厳しかったです。自分である程度考えないと認めないという。今でしたら考えようもあるのですが、当時は何も分かりませんでしたから。分からないなりに考えてやると「お前何やってんだ」と言われるし。そういうお稽古が度々ありました。変なことすると「お前やめろ」といってぷいと奥へ引っ込まれてしまう。「本当に分かりません」と謝って何とか稽古して頂きました。華雪先生も雅雪先生も、いわゆる観世流的な流れる謡という訳ではなかったのですから、寿夫先生がそこまで野口さんに傾倒されなくてもよいのではとも思いましたが。やはり魅力を感じていらしたのでしょう。榮夫先生もここを出て喜多流に一度行かれています。ここの家の方はこれからのものを創ろうという気持ちを持っておられたのだと思いますね。私がここに来たのは榮夫先生が喜多に行かれた後でしたから。時々雅雪先生に「榮夫先生の舞台を拝見したいのですが」と言って、喜多流の舞台は見ていました。ただ榮夫先生のでないと駄目でしたね。他流の舞台を見るというのは、五流能のような異流競演のときだけでしたね。特別に行くことはおそらく許可されなかったでしょう。私も強いて言いませんでしたが。ただ一回だけ、これは寿夫先生の頃ですけれど、私が「賀茂」のシテを銕仙会で舞わせて頂くことがありました。丁度そのとき宝生の近藤乾之助さんが「賀茂」を舞われるときで。「お稽古を見学したいのですが話してもらえませんか」と寿夫先生に頼んで、近藤乾三さんのつけるお稽古を見せて頂きました。それは凄い勉強になりましたね。基本的に「こうなんだ」という所を押えて稽古されていました。乾三さんも無駄なことは仰らない。「絶対これしかできないんだぞ」というやり方でした。感心して帰ってきましたね。寿夫先生のお稽古も「ここはどうしてもこれしかない」というお稽古でした。曲によって色々ありますけれど。先年亡くなられた銕之丞先生(八世静雪)からもお稽古を受けてます。4人の方から稽古を受けてますから(笑)。まあ華雪先生からはお稽古というより注意を受けただけですけれども。それぞれの個性があって、道順は違っても目指す所は最終的に同じ所。理想は同じでしたね。寿夫先生は「謡が下手なのは絶対駄目」とよく仰いましたね。華雪先生、雅雪先生、寿夫先生、静夫先生皆謡が上手でしたね。やっぱり血はつながってるものだから、静夫先生も品のある謡をされてましたし。寿夫先生は晩年そういう謡が出てきた頃に亡くなってしまいましたが。将来華雪先生のような謡になるだろうと思っていたけれど、そこに行く前に亡くなられましたので。力と品の両方ある謡、そこを皆目指してたように思いますね。私もそうなりたいと思って努力してますけれど。なかなか難しい(笑)。やっぱり師匠はずっと上ですよ。でも行きたいと思いますからね。まだまだ足元にも及ばないですね、少し分かってきたかなという気がするのですが。もっと分かればいいと思います。寿夫先生は腰に凄い弾力があって、どんな動きでも自由自在でしたね。私はそれに比べるとまだまだです。あと何十年かかって出来るか分からないですね(笑)。


◆病気のこと 「木賊」のこと

 若い頃に糖尿病と言われてね。それはやっと直ったのです。あとc型肝炎。まだ直ってません。最近数値が上がってきたのですが。あとは解離性大動脈瘤。入院したとき初めてその名を聞いてね(笑)。何回聞いても覚えられなくて。看護婦さんに10回以上聞いてやっと覚えたのですけれど。動脈瘤は血管が裂けちゃって、違う所に血が流れたものだから凄く痛かった。それで1ヵ月半ほど入院していました。そのときお医者さんに言われたのは「緊張したら血管裂けますから、絶対に緊張しないで下さい」って。「能は緊張します」と言ったら「じゃあもう能止めなさい」と、簡単に言われてしまって。これで私おしまいかなと思いましたよ。だけど能は舞いたいしね。お医者さんは「緊張しないで舞うならいいですよ」と仰って。集中治療室から大部屋に移ってから、動いちゃいけないと言われていたのだけれど、歩いてみたり。丁度「木賊」の前だったものですから。緊張しないで舞うにはどうしたらいいかそればかり考えましたね。でも考えても分からない、これは毎日少しずつ動いていくしかないなと。それでも緊張しますからね。出る前はどきどきしますし。でも今日こうやって舞えてますから、それは有難いと思います。病気と闘っているのか、能舞うのと戦ってるのか分からないです(笑)。だから両方闘ってます。特に「木賊」のときは銕之丞先生(八世)がお稽古付けて下さる前に亡くなってしまって、「どうしようかな」と思ってね。「木賊」のときが一番大変でしたね。「姨捨」のときはもう自分で考えるしかなかったですから。真州さんも前に舞ってましたし。そのビデオを拝見したりして。真州さんは亡くなった銕之丞先生(八世)にお稽古を受けてらしたから。でもそのビデオを見ても型付けと随分違うんですよ。結局自分で考えるしかなくなって。当日は型付けに近い形で、所々真州さんの型をしてみたりしましたが。「姨捨」のときはとにかく緊張しないでやろうと、それだけでしたね。死んでしまってはどうにもならないですから。


◆稽古の質

今は冷暖房もあるから自分の体で感じるということが減りましたね。私も「姨捨」を舞う前に姨捨山に行ったのです。そしたらその日雨が降ってしまって、月が見えなくて。翌日は雪が降って。でも逆に雪のしんしんと降る感じ、あまりに月が凄いとぞっとする寒さになってしまうのではないかと、その雪から思いましたね。そういった体で感じたことが稽古で生きるということは昔の方が多かったでしょう。昔は体で覚える稽古だったのです。雅雪先生の「熊坂」の稽古はそういう稽古でした。速さをとにかく体で覚えさせるという、今にして思えばね。寿夫先生はそこに頭も使われた。今や皆理論的になってますから。何かのときに自然に体が動くとか、言葉が出てくるとか、体で覚えたことは歳を取っても出てくるはずですから。それが大事じゃないかなと思いますね。時代といってしまえば時代ですけれど。体が大事にされない分、感性は昔よりうんと必要になってくるのではないでしょうか。


◆再び「鉢木」へ

 やっぱり直面ものですから、「姨捨」や「木賊」とは全然違いますからね。表情に出してはいけないですし。あと少し歳をとり過ぎてますからね(笑)。若さを出さないといけない。これから作っていこうと稽古を始めた段階です。自分の中ではおおよそ出来てはいますけれども、細かいところがね。一番難しいのは最初の「ああ降ったる雪かな」というコトバですね。あれがうまくいかないとどうにもならない。どうすれば雪が降っているような謡が出来るか、考えてはいるのですけれど。我々の中ではそこがうまくいけば成功だという極端な言い方をするのですよ。「景清」の一番初めの「松門一人・・・」という所もそうですね。それくらいそこは難しいということです。「景清」なら何行かあるのですが、「鉢木」は「ああ降ったる雪かな」一句だけですからね。それがうまくいくかいかないかで決まりますから。でも考えても出来ませんから。今年はもう「鉢木」だけです。私は舞うのは年1回か2回で十分です。
 「鉢木」は割に日常的な会話が多いですからね。あと場面転換も次々と変わっていきます。それをいかに切れ味よく出来るかということ。若い頃は切れ味よくても、歳を取れば動きも鈍くなるので。あと
やはり心に訴えるような謡をしたいですね。いくら架空のことでも、真実味を帯びた言葉を発しない限り成り立ちませんからね。「姨捨」のような曲ですと、日常的な会話と違う次元のものが必要ですからそれはそれで難しいのですけれど。でも直面というのは難しいです。どうしても苦しくなると表情が動きますから。ほっとすると緩むとかね(笑)。ですから直面の方が難しいし、謡よりはコトバの方が難しいですね。コトバが多いと言うのは「安宅」や「自然居士」もそうだけど、難しい。「鉢木」はほとんどコトバですし、最初の一句で決まりますからね。そのつど表情が動いていても駄目ですから。
 これからは演者の押付けるような番組ではなくて、お客様の要望も汲んでいくべきでしょう。昔は催しが少なく一番にかける時間も沢山あったのです。今は銕仙会はやたら忙しいのですよ(笑)。亡くなった銕之丞先生(八世)も金属疲労と言われるほど忙しかったですし。自分の稽古をする時間が昔と比べると随分減ってきているのです。自分を鍛える時間をどう作っていくか。今は舞台に出ながら鍛えるという形になっていると思います。ただ忙しいだけでは曲そのものも掘り下げが深い所へ行かないし。そういう心配はありますね。演者個人個人がそれを解決していかないと。忙しいだけに流されては、なかなか中身の濃い能は舞えなくなってしまう。それが一番気になりますね。
  【寄稿】金子直樹氏「初心者の視点 ─ 響の会代14回公演を観て」
 9月27日、某大学のオープンカレッジの受講生30名を連れて「響の会」を鑑賞した。
 四半世紀以前(まだ学生の頃)、素人弟子に依存しない「一般観客」を増やそうと語り合い、微力ながら啓発活動を始めたのも今は昔。近年、着実に一般観客が増えてきた。これには様々な要因があろう。二十年に及ぶ国立能楽堂の主催公演が流儀を越えて能を観るきっかけを与え続けたこと。ユネスコの世界無形遺産指定や教育指導要領改定による邦楽授業の増加。インターネットによる情報の提供。そしてなにより、マスコミへの露出度の増加などである。一方で企業や学校の謡曲クラブは低迷しており、シテ方の生活基盤に影響を与え始めている(この話題は別の機会に譲る)。
 さて、一般観客が増えたのはいいが、能楽との向き合い方がわからないという意見が多い。そこでカルチャースクールやオープンカレッジ等で能楽講座が開催されるが、そこで何を伝えるかが問題となる。本来、理解することと感動することは別物だ。能から受ける圧倒的感動はまさに「百聞は一見にしかず」である。そうは言っても、理解が感動を助けることも事実なので、私が担当する際は、舞台鑑賞を前提に様々な切り口を伝えようとしている。各々が興味を持った方向から切り込み、徐々に円錐形に穴を掘るように広く深くしていけばいいと思っている。要は、茶の間でテレビを見るように漫然と見るのではなく、自ら進んで、身を乗り出して見つめることの必要性を意識してもらうことだと思う。
 受講生の大半は初心者で、以前見たときは何が何だか解らなかったが、今回はいろいろ感じ取ることが出来たとの意見が大半。理解が感動を助けてよかったと思う。「井筒」に心静まる思いを感じ、「雷電」の張り詰めたダイナミックさに驚き、パンフレットの趣味の良さを愛でる。早速十月の宝生会で「井筒」の比較鑑賞を行う方も出てくるほど。一方で、始まるときに客席のざわつきや私語が気になった、終演後に余韻に浸るまもなく拍手が起こったなど、観客のあり方についての率直な苦言もいただいた。そんな「世の中の常識」にどう応えていくか、主催者ともども考えていかなくては、と思っている。
  【レポート】第19回響の会研究公演報告アンケートから
◆袴狂言 鱸包丁 山本東次郎

 「東次郎師の風格と芸の蓄積にはいつもながら圧倒されます」「スズキのごちそうが目に見えるようで面白かった」など賛辞の一方、「言葉が難しかった」との感想も。


◆ 袴能  俊寛  観世銕之丞

 観世榮夫氏が病気療養のため、急遽銕之丞氏の代演(しかも初役)。その熱演は「正面切った真っ向勝負の気迫に圧倒」との感想と同時に、「表情が動きすぎ」「生々しすぎる」といった声も。袴能という形式に対しては、「面のない緊張感が良かった」「新鮮。演者に親近感が湧いた」とあり、今後も継続して上演を望む声が多かった。また今回シテ、ツレ、ワキ等は色紋付で舞台に立った。それに対し「余分な演出を排除するなら、黒紋付や同じような袴でやってほしかった」との声も。このことは後日(今年10月26日)集いでも話題になり「黒紋付だと暑苦しい印象を与える」との意見が出た。榮夫氏の再演を求める声は多く、それに応える形で来年9月に袴能「藤戸」が決定。

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 アンケート公表は「素人の同好会ではないのだからすべきでない」との意見も。しかし舞台成果を様々な面から検証し、今後につなげていく手段として、アンケートの公表は大事な手続きだと思う。舞台芸術を動かし、支えるのはやはり観客の熱い声なのではないでしょうか。
 アンケートにご協力下さった方々にこの場を借りて厚くお礼申し上げます。

[アンケート総数:69通]
  【編集後記】長谷部好彦
 響の会でアンケートを実施すべきだと僕が提案したとき、次のような意見が出たことを思い出します。料理を出した後においしかったかなんて尋ねるのは野暮だ。そんな堅苦しいことはお客にとって迷惑でしかない、と。
 確かにアンケートはないのが理想かもしれません。能が終わると、見所は静寂につつまれ拍手一つない、そしてそれぞれが余韻に浸りつつ無言で舞台を後にする…。しかしそのような状況は、なかなかやって来るものでもありません。そしてどちらかといえば、終演後観客がその出来をめぐってやかましく議論するくらいのほうが、舞台芸術としては本当なのかもしれません。
 響の会のアンケート・集い・通信は、観客の声をこれからの“能”を模索するための重要な要素として位置付けています。舞台の感想を消えていくだけにせず、どうすれば多くの人が共有できる議論に発展できるか。集いで直接演者にぶつけることもよいでしょうし、
アンケートとして答えることもできる、またメールで感想を下さる方もいます。能は、ともすれば演者の独善に陥りやすい危険があります。そうならないように観客の声が少しでも届く回路を仕組まねばならない。
 響の会通信を編集するにあたって、演者と観客の声が対等に扱われる媒体にしたいという思いがあります。確かにアンケートを載せる事自体への疑問も寄せられています。しかし、やはり舞台芸術を変えるのは観客であるし、その声は形にすべきです(実際アンケートに応える形で来年榮夫氏が袴能を演じます)。響の会が、能楽界全体が、さらに響き合いを増すためにも、さらなる観客の声が必要なのです。
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