響の会〔清水寛二・西村高夫〕
HOME
お知らせ 公演のご案内 チケット予約 響の会の集い 響の会通信 CLUB HIBIKI 響の会について 同人紹介 お問い合わせ
  |響の会通信 トップ響の会通信 最新号響の会通信編集委員会
銕仙会
曲目解説集
能と狂言のリンク
公演アーカイブ
公演会場のご案内
青山グルメマップ
水道橋グルメマップ
清水寛二 出演情報
西村高夫 出演情報
サイトマップ
響の会メール通信
演者の横顔
青山グルメぐり
しみかん日記
西村"写々丸"日記
Powered by Google
WEB全体  響の会サイト内
響の会通信 最新号
←前号へ一覧に戻る次号へ→
「響の会通信 vol.7」2005年10月発行
●コンテンツ
巻頭言: 清水寛二「相対性能楽身体理論」
巻頭言: 西村高夫「〈アグリカルチャー〉的考察」
特集: 荻原達子氏インタビュー
「観客と役者をつなぐ現場から」
レポート: 第16回 響の会公演報告
寄稿: 伊藤悠可氏「舞台に降り立つもの」
寄稿: 表きよし氏「響の会を観て」
エッセイ: 助川治氏「出端も恐ろしい」
エッセイ: 白坂信行氏「響の会の舞台を終えて」
レポート: 第26回研究公演報告 アンケートから
ご案内: 響の会 秋冬の催し
清水寛二・西村高夫 出演情報
解説: 「別離と回復」長谷部好彦(編集委員)
  編集後記
   【巻頭言】清水寛二「相対性能楽身体理論」
 「道成寺」では落ちるはずの無い鐘が落ちる。
実際には鐘後見の手を離れた鐘は引力によって落下するのだが、戯曲上はシテの物理法則によらない力で落とされる。そしてワキの物理法則を無視した力で引き上げられ(実際は鐘後見の完全なる人力による)、全く次元の異なるものの葛藤となる。
 「一石仙人」ではアインシュタインの相対性理論による宇宙観が語られるが、それを目に見える形にしていくのは、「相対性能楽身体理論」とでも言うべき、能の身体の使い方である。
              
 遠いー近い 大きいー小さい 重いー軽い 高いー低い 速いー遅い 明るいー暗い 強いー弱い 多いー少ない

等々対立する要素を同時に成り立たせ、何らかの錯覚を起こす能の演技の理解には、『特殊一般相対性能楽身体理論』が必要である。もちろん身体論といっても単純に「構へ」や「型」などのことだけではなく、それを生かす重心の動きや、質・量・ベクトル等いろいろな意味での加速度、そしてそれらを統御したり、思わず動かしてしまう「気」というべきものの働きが大事なことになってくる。
 これらはとてもなかなか面白い事だと思う。
 今回能舞台での「道成寺」からホールでの演出の新作能「一石仙人」を続けて演ずる経験を得た。この際、能におけるこの相対理論を極めたいと思っている。
   【巻頭言】西村高夫「〈アグリカルチャー〉的考察」
 種をまいてもすぐ花は咲かないし、実も生らない。今我々能楽師が享受している観客の状況は一体どういう人々によって種がまかれて育てられた結果なのだろう。
 戦後六十年、当時二十歳の人が八十歳になろうとしているこの現実。今この七十歳代の人達の体力・気力の限界を目の当たりにし、そういう人々の一途な想いに支えられてきたことを思い乍ら、我々は自問しなければ。我々はやっと花咲き実生ったものをここに至って食い尽くさんとしているのではないか。我々は果して種をまいたのか。己れが食う分にしか目が行ってなかったのではないか、種をまいたとしても、それは自分が食う為の即成のものだったのではないか。それでは、刈り取れば刈り取るほど畑の土壌の質は低下し、土地はやせてしまう。やがて土地には立派な作物が育たなくなる。
 まずはじっくりと土地を耕し土壌を豊かにし、世代毎に、場所と時節に適った種まきをし、いつもどこからか収穫が上がり、その間にはまた新たな種まきの為の豊かなる耕作がなされるという、耕作&収穫の程良い連鎖的多毛作創造行為がなされなければならない。繰り返すが、我々は先人が戦後しっかり耕してくれた一毛作の畑の収穫をここに来て食べ尽くさんとしているのだ。今こそ自分の為にではなく、これからの人のために、しっかり耕し種をまかないと。数年間窮場を凌いでも、何の役にも立たない。この先更に四十年五十年能を支えてくれる畑の準備をしなければ、たとえ今貧したとしても。
   【特集】荻原達子氏インタビュー「観客と役者をつなぐ現場から」
響の会通信では前号まで響の会各公演をきっかけとして演者の方へのインタビューを掲載してきたが、今回は、能の世界の中でも演者ではない立場の方にお話を伺おうという趣旨で、前社団法人銕仙会事務局長で現在能楽座ゼネラル・マネージャーの荻原達子氏にインタビューを行った。能楽プロデューサーの先駆け的存在として、戦後の能楽界を一貫して支え続けてこられた立場から、能楽界におけるご自身のこれまでの関わり、戦後の銕仙会の歩み、そして現代の能楽界に対する提言や将来の展望についてお話を伺った。


■ 能・狂言との出会い、「風姿花伝」のこと

荻原(以下、荻) 私が能の公演の制作に関わりはじめたころ、一九五〇年代末からですが、観客と演者の間をつなぐ制作という立場は確立していませんでした。それ以前、最初に具体的に能と関わりをもったのは一九五四年に能楽書林に勤めたことです。その当時は私自身能に関する知識がたくさんあった訳ではないし、観能経験が豊富だったというわけではありませんでした。
 ただ、中学時代に読んだ世阿弥の「風姿花伝」だけはどこか頭の片隅に残っていたのです。何かとても感動したことを。当時実際に能という舞台芸術を観たことはなかったけれど、ただ人が生きていく上で、人間にはいろんな成長過程があって、その時代その時代にとっても大事なことがあるんだっていうこと、そして「花」ということかなぁ、とにかく私は感動したんです。したけれども、私の読書経験の中の一こまとしての記憶ですね。で、その後はずっと忘れていたわけ。まぁ、上京してから能を観る機会が全くなかったわけではなかったけれど、高校、大学っていう時代には、私にはまた違った目標というか私の興味をそそる問題ってのは他にあったから(笑)。
 大学卒業後、そのまま生まれ故郷に帰れば普通にお嫁さんになってということになるのはつまらないな、と。それで、自分で納得のいくものを掴むためには自立できるなにかを見いださなきゃならない、そのためには親にぶらさがらないでどんなに貧しくてもいいから仕事をもって、食べていかれることをしなきゃいけないだろうと思ったわけね。それで、やっぱり故郷に帰るよりは東京で何かやりたいなと思ったんだけど、すでに色々考えるのが遅すぎて、就職活動期間が切れてしまっていて、どこにも就職するあてがなかった(笑)。こんな感じで故郷に帰っちゃったらそのままになっちゃうなと思っていた日の朝に、朝日新聞を見ていたら、求人広告欄にたまたま「能楽書林」ってあったわけ(笑)。その能楽書林の「能」って字を見たときに、不思議なことに、中学時代に出会った世阿弥の「風姿花伝」の感動がふと甦ってきたのね。もうずっと忘れていたのに、なぜかそのとき、「あぁ、そういう世界があったんだ」と思った。それで、すぐに能楽書林にすっとんでいった(笑)。で、次の日からいらっしゃいということでしたから(笑)、そこに入ることになったんですけど、ほんとにお恥ずかしいことですが、能の曲目も正しく読めないような何も知らない状態でした。だから能楽書林にとっては迷惑な社員だったと思いますけれど。たぶん、その当時丸岡大二さんが編集長をやっていた「能楽タイムズ」の編集のお手伝いをする人が必要だったのかもしれませんね。それに、その当時能は特殊すぎましたから、お給料も安いのに何故そのような職を選んだのか両親からも友人たちからも不思議がられました。だから私は全く「ノウ」なしだったんですよ(笑)。


■ 観世三兄弟、野村兄弟との出会い

荻 能楽書林には七年ぐらいいたのかな。その間に六十年安保がありましたね。能楽書林に、「華の会」を結成したばかりで生き生きとしていた若き観世三兄弟(寿夫、榮夫、静夫)がよく出入りしていらしてた。遊びにというか、お仕事というのか、よくお立ち寄りになってたのね、寿夫さんも静夫さんも。榮夫さんはときどきでしたけど。丁度、謡本の新装改訂版を何冊か出していた頃でもあって。特に寿夫さんはそのために、横道萬里雄先生や、先の喜之先生(九皐会三代目当主・観世喜之)、永島誠二先生とかいろんな人と打ち合わせがあっていらしてたのね。
 当時、それまで観てきた能というのは数えるほどしかなかったけれども、能楽書林に入ってからは機会があれば流儀を問わず観るようになって、その中で「華の会」のお能を観たときに、私の中になぜか「これからのお能っていうのはこの人たちじゃないか」って思った。狂言は、野村兄弟(萬〔当時 万之丞〕・万作)でした。彼らも「冠者会」という狂言の会をもっていて、狂言の魅力を若さとともに発散させていた。今や観世の兄弟と野村の兄弟こそ将来の能と狂言のこれからを創っていく人だと思いました。その人たちが時折能楽書林に顔を出されたり、社主の丸岡明・大二のご兄弟と交流があったので、色々とお話をする機会もあったのです。彼ら若い能楽師たちが戦争を境として何に悩みそして将来どういうふうな方向で舞台を続けようとしているかという思考と行動が、私の心を打ったということがありました。
清水(以下、清) 丁度そのころは寿夫先生たちはもちろんですけれど、研究者たちも同じ頃から新しい…
荻 そうですね、横道先生、表(章)先生をはじめとして、その後の能楽研究の礎を築かれた時代で、しかも能や狂言の役者たちが研究分野に踏み分けていったんですね。能楽ルネッサンスの会主催の「世阿弥伝書研究会」に寿夫さんに連れて行ってもらったことがありますけれど。それは最後から一回目か二回目でしたが、西尾実先生を中心に伝書を読み解く会でした。


■ 能、初めてヨーロッパへ渡る

荻 丁度私が能楽書林に勤めた年は、能が初めてヨーロッパに行く年だったんですよ。イタリーのベネチアに。その作業をこの私は目を見張る思いで見ていました。能がヨーロッパで公演なんて考えられなかった頃ですからね。
 ヨーロッパ公演のための準備は能楽書林の社主だった丸岡明さんが中心になってやってらっしゃった。私は直接その仕事を手伝うわけではなかったのですけれども、色んなことを垣間見られたわけで、ひとつひとつが全く珍しいことだった。丸岡さんはじめ、能の役者の方たちも出入りして、右往左往してましたね。経費のことから、芸術的なことまで、いろんなことが耳に入ってきた。それで、今とは違って出発のときに、空港には凄い人出だったですよ、見送りの方々が。飛行機のタラップに皆さん勢揃いして写真を撮ったりとか、それから花束を渡したりとかね。賑やかでしたよ。それから、留守家族のために、出発の前に慰労するための寄席の会をするとかね。事前に、東京、名古屋、大阪などで、欧州で公演する曲目をその配役で演じたりして、その売り上げも多少資金にしたんでしょうね。今のように、助成金が出るとか、そういうシステムじゃなかったから、後援会組織を作って、先ず資金集めをして、ということだったようです。私はその途中から見聞きし始めたわけですから、おそらく、私が書林に入る前年か前々年から準備していたんじゃないんですか。丸岡明さんが中心となって、当時の政治家、文化人、学者の方々による準備委員会を作ったんだと思うんですよ。能楽タイムズも一生懸命でした。
 もちろん能の役者の方々も、初めていくわけですから、自分たちが「これだ」と自信をもって言えるような舞台をやろうっていう意欲がおありになったんですね。だから、能に関わった最初の年に、そういう雰囲気に触れたってことも、七十年代の終わりからずっと今に至るまで、しばしば私が欧米の各都市や東南アジアの各都市で海外公演を手がけるようになったことにも何か影響があるのかもしれません。


■ 寿夫氏のよびかけ、銕仙会に入る

荻 でまぁいろいろあって長いこと勤めた能楽書林を辞めて、しばらく平凡社でアルバイトをしていたところに、寿夫さんから銕仙会で仕事をしてくれないか、という要請がありました。「銕仙会をよりよい演能集団にしていくためにはこれまでのようなやり方では駄目で、舞台上のこと芸術面の手綱は自分がとって努力するから、いわゆる制作面のことをこの能の世界にしっかり立ち上げて欲しい、そして演者と観客をつないで欲しい」ということでした。寿夫さんは能が世界の舞台芸術に互して行かなければならないという信念と、開いた目を持っていらした。
 でまぁ、私としてはそういう理想的な仕事には魅力を感じるんだけど、何たってこの世界ではそれまでどこの集団でも家族単位でものごとが運ばれているから、やっぱり相当勇気をもっていろいろ自分で方法を探しながら創り上げていかないと駄目でしょ。だから一体どうしたらいいかってすごく悩みました。自立した仕事として成り立たせることができるだろうか、と。
 でまぁ、とにかくやろうと決心できたのは、やはり寿夫さんを中心とした華の会の舞台が私にとってとても魅力的だったっていうこと、つまり私の魂を揺さぶるような舞台だったっていうことがあったからです。それは名人芸とかそういうこととは別ですよ、私も若かったけれど、自分の中で魂が揺り動かされているような感じを舞台から受けたわけですよね。生意気だけど、これからの能を支えるというか創るのはこの人たちだ、と感じたってこと。その気持ちがあったから、雅雪(七世観世銕之丞)先生・華雪(六世観世銕之丞)先生を含めた年齢的に幅広い銕仙会という集団の中でも、彼らの思いが活きられるようなことができればいいなぁと思ったわけです。
 といっても、当初は非常に暇でした(笑)。ほんとに例会しかないような時代でしたから、今のように忙しくなくて。まぁ何もかも全く初めてでしたけど。そういう集団を動かしていくときにどっかでは経営者としての自覚ってのがはたらかないとダメかなぁと思うときもありました。私にはそういう才能はないし、と思っていたんだけど、たまたまそのときの理事さんの中にお一人非常にもののわかる方がいらして、その方から経営というか集団でものを作っていくときのものの考え方みたいなものを、会議の時に話をうかがって体得していったってことかしら。自分で工夫しなければならないことばかりでした。だから、今までとは違ったことをしたりするので、銕仙会で戦前から活動していた人の中には随分「困った」と思われた方もいらしたかも知れませんね。何年か経ってからもお囃子の方から「あなたは何してるの」って言われたぐらいに、能界の中ではそういう存在っていうのは認められないっていうか、皆さんのなかではなかなか納得がいかなかったかもしれませんけどね。
 だけど、寿夫さん、榮夫さん、静夫さんらが持っていたもの、つまり、新鮮で若々しく魂を揺るがせてくれる何かがあったから、私は一生懸命やったんだろうと思いますよ。役者の魅力が溢れていて、それが観客の心をとらえた。私自身その観客の一人であるのだが、それを客観化しなければならない。そのことが分かり合えたから続けることができたんでしょう。
 一九六七年に「鷹姫」を銕仙会の例会で初演したときが、第一の試練だったと思いますね。横道萬里雄先生がお書きになった台本をもとに創り上げていった過程は、今も私の仕事の基本になっていますし、その後の「冥の会」の活動のお手伝いをさせていただいた経験は、今でも能楽堂以外の会場で公演をするときの作業の組み立ての基礎になっています。すでに鬼籍に入られてしまいましたが、「冥の会」のときの青年座の制作の金井彰久さん、舞台監督の土岐八夫さん、照明の氏伸介さんは、いわば私の師匠です。


■ 学生を中心とした若い観客層の存在

荻 学生を主体とした若者たちが銕仙会に非常に注目して、銕仙会の能を熱心に観に来てくださったってことが、私にとっても銕仙会の役者さんにとっても、それがどれだけ大きな励みであったかっていうことを思いますよね。私は自分がやりはじめてから、毎月毎月観客数のグラフを作りました。そのグラフを見ればわかるんだけど、ある時期とっても学生層が厚かったですよ。若者たちが求めるものと舞台上から役者が投げかけるものが熱く交叉した、そういう時代だったのかもしれませんね。
 そういう意味では、能や狂言を普及しましょう、っていって、今いろんな試みがされているけれど、いったいそれはほんとにそういう方向でいいのだろうか、ってことは今大いに考えなくちゃならないことではないかと思うんですね。ただただ、解説したり能の手の内を見せて「解った」と思わせたり興味を起こさせる、それはそれで意味があることだけれど、それだけでよいのかどうか…。やっぱり舞台なんだから、舞台からその魅力を打ち出してくださらなくては。
清 私たちが観ているときだって、例会に学生百人は普通だったんじゃないですかねぇ。
荻 今だったら考えられないわよね。あの水道橋(現 宝生能楽堂)のときにはねぇ、六十年代後半から七十年代ですね、クーポン制でしたからね。
清 私もクーポンでしたよ。十回で千円で、当日三百円追加するのかな。
荻 えぇ。若い人たちに観ていただこうという姿勢っていうのは私が銕仙会に関わりはじめたとき既にあったの。だから、それは銕仙会の人たちが、華雪さん、雅雪さん、寿夫さんたちの兄弟、その当時の理事さんを含め、みんなの間に「若い人たちに観てもらわないとだめなんだ」っていう思いがあって、ほんとに破格の値段でそういう人たちに能に近づいてもらおうとしていた。しかも、いい舞台をどうやって創るか、という試行錯誤も同時になされて、最初は三番ぐらいあった能を二番にしたり、一番にしたりとか。あるいは大抵が日曜日の昼間とか普通の日の昼間にやっていた頃に、他の会に先がけて平日の夜の公演にしてみるとか。それから、喜多実先生は早い時期から学生対象の鑑賞会等の活動をなさってましたね、いろんな資料を見ると。
西村(以下、西) その時代の学生層というのは、能の観客に限らず、エネルギーをもっていた時代ではないですか。ちょうどそういう折り合いが能の方でも若い世代に当たりますよね。
荻 そうね、ちょうど六十年代から七十年代にかけては、古典芸能の人ばかりでなく、音楽でも美術でも演劇でも若い人達が活発に動いていた時期よね。
西 やっぱり、その頃は関観連(関東観世流学生能楽連盟)という組織が、いい意味で反家元みたいな感じの、体制に対して抗するというような主張で活動していたように思います。その頃、観世寿夫という人を中心に活動しているグループが、家元に対してちょっとアンチ的な立場があったから、自分たちの持つ心と通じるというか、観世寿夫を中心とした銕仙会の能を観に行くということが、体制に対してアンチ的なニオイを共有するということでよかったんじゃないかなぁ、と。あの頃は関観連は十校ありましたよね、一番多いときはね。例えば、十校が十人ずつ観に行けばすぐ百人になりますよね、そういう風にエネルギーが競い合っているという感じがあったのではないでしょうか。いろんな意味で。
清 習っているのは家元の方であっても、観に行くのは銕仙会だ、っていうことがありましたね。銕仙会はともかく観に行くんだっていう。だから、舞台観ていて舞台からのエネルギーも得たけれども、水道橋にいくってことで観客席の間でね、エネルギーをもらえるみたいなところがありましたよね。
荻 その当時私にとって印象的な言葉は、年輩で長いこと銕仙会の観客であられた実業家の方がね、よく私に「銕仙会に来ると、ぼくらはとってもうれしい」と。なぜですか、と尋ねたら、「いやぁ、こうやって若い人達と同じ席で観られるのがとてもうれしいんですよ」と。「こういうのが本当に舞台と観客なんですよね」というようなことをおっしゃってくださって。
 ただ、本当は学生さんも正面の席に入れてあげたいんだけど、たくさんのお金を払っている方と学生とでなかなか具合悪いでしょ。ときには学生さんが膨れあがってきちゃって正面のお客さまが少ないときにはね、正面席に食い込むようなこともしましたけどね。でもね、学生さん百人ぐらいにお帰りいただいたこともありますよ。今じゃ考えられないでしょ。例会のときにはほんとに早くから列を作って並んでるんですよ。一般の人たちはね、指定席をとってるんだけど、学生さんたちはクーポン券だから、当日受付で席を決めなくちゃならないから、早くいかないといいところがとれないし、売り切れてしまうこともあるから、もう長蛇の列なんですよ。「銕仙会はいつもいいですね」なんて言われたけど。でも、それは並ばざるを得ないような仕組みでもあったわけよね。


■ 学生の火が消えて、現在

島田(以下、島) ただ、そのあと残念ながら、その火がだんだん消えていくわけですよね。
荻 そう、だからねぇ、その消えていき方っていうのもねぇ、私はやっぱりきちんと分析しなくちゃいけないと思っているんだけど、それは一概にその、銕仙会が悪いってことではないと思うんですね。やっぱり能全体の社会に対するアプローチの仕方ってのがどっかで変わってきちゃってるってことじゃないかしらね。それと、能の側の要因ばかりでなく、今は人々が享受したいものがたくさんあるわけですよ。すると、能だけってわけにはいかないでしょ。
長谷部(以下、長) 選択肢が多くなった…。
荻 それともうひとつは、早くから言われ続けていながら、何の対策もなくずっときてしまったために、日本の子どもたちが能や古典のものにふれる機会が少なくなりすぎているってことがありますよね。日本の古典芸能を受けとめる下地が子どもたちになくなっているということはどういうことか、広い視野で私たちの日常から見直さなければならないでしょうね。西 情報ををただ受け止めて処理していくっていう教育なのか何なのか、そういうものが身に付いているから、よく言われるように感動しなくなってきている。だから、コンスタントに情報を提供しても「あぁ、そうですか」で終わってしまう。情報量が多いに越したことはないのかもわからないけど、自分の過去を振り返ってみたとしても、そんなにぼくだって能の情報がまわりに多かったわけでもないし、どこかでたまたま出会いがあってということですから、その鮮烈さの方が、コンスタントに能の情報が溢れているよりもむしろ、情報として有効な気もするし。だからいいポイントでいい情報を与えるように考えていった方がいいんじゃないかなぁと思いますね。今はとにかく広く広くって、情報は出してるんだけど、それが他の情報の中で埋没しちゃって、何にも鮮烈さがないといいますか…。
荻 そうすると、どっかで能を観たいという気持ちがね、観客のどこかにないと持続していかないわね。大抵、「一度みたから、もういいわ」ってことになったり、それから「あぁ、能ってそういうものなのね」ってことだけで終わっちゃう。そうではなくて、やっぱり何かひとつ観たときに他の芝居にないものを感じさせるような舞台がどっかにないと、やっぱり人々の心は離れるでしょうね。とすると、人々の心を掴むのは何かっていうことです。ただ回数やればいいかっていうことではないし、じゃやらなきゃどうしようもないのだからやらなきゃいけないし。じゃぁ、その人々の心を掴まえるってことは、やっぱりその人が能とどう取り組んでどう生きようとしているかっていうことですよ。それが観客の心をとらえる。だから、カタチだけで「これが能ですよ」「ぼくたちは何十年も続けているんですから、立派でしょ」っていうふうな見せ方してたら、お客さんからすれば「一度観たからもういいでしょ」っていうことになっちゃいますよね。
 だから、世間でこれだけ能の公演が多くなってきているときこそ、やっぱり一つの集団としては、ほんとに堅実に集団の理念、あるいは集団としての舞台の底力っていうものを見せるような仕事をしていかないと、やっぱり最終的にはいいお客との出会いがなくなってくるでしょうね。
 だから、やる方にとってはいいお客と出会うってことが大事なんだけれど、ではいいお客がどうやって寄ってくるかってことではなくて、自分たちがいい舞台を勤めればいいお客が付くんですよ。肩書きで舞台を見せるのではなく、舞台から観客へ、作品を通して何を訴えようとしているかです。舞台の上から、能という様式を通して、何か感動させてくれるってことが大事なわけでしょ。囃子も地謡もシテもワキもアイも何もかも、ほんとに完璧だったなんてことはあり得ない。どんな基準があるのですか。舞台はいろいろな役の人たちがぶつかりあい、引っぱりあって、創るわけでしょ。お客さまの感動の仕方も一様ではないですよ。


■ 制作=観客と役者をつなぐシゴト

荻 能楽座の制作を引き受けて十年経つけれど、能楽座は同人の集まりです。同人の皆さんは既にそれぞれのところでそれぞれの仕事をまっとうしている人たちばかりです。歳をとっても、若い時の気持ちを失わないでいつまでもいつまでも、まだ能を観たことのない人たちに自分たちの舞台を見せたいってのが、彼らの基本的な姿勢です。
 私は先の銕之亟(八世観世銕之亟)さんから、相談を受けたのです。彼らが六十歳を越えてなお青年時代の情熱を持ち続けて前へ進もうとしていることに気持ちが動いたの。少しでも皆の力になれればと。同人の会費を元手に動き出したわけです。西 例えば、最近地方での能の公演が比較的多くなったじゃないですか、かつては東京とか能楽堂のある特定の地域でしか見れなかったのが、今はホールなどでたくさん演じられるようになって、そういうことをやはりこれからの能の流れとして踏まえてやっていくということが、能の観客層を広げていく上での種蒔きとして必要なんじゃないかなと思います。
荻 そうね。観客を開拓する人があっちこっちにもっといてほしいわけですよ。いるべきなのよ。能の役者たちが自身でなさることが多いけれど、それでは自分の弟子の獲得の延長線上のことでしかないと思うの。
西 舞台に専念していればいいわけですけどね。
荻 舞台に専念というよりも、自分たちはどういう舞台をしたいんだという理念をはっきり持つべきです。そして、能の公演をしてみたいという人たちがどう取り組もうとしているのか、そこが大事なのよ。誰かに頼めば東京からみんな連れてきてやってくれると思っちゃう。確かにそれで成り立っちゃうかもしれない。だけど、試行錯誤しながら努力して集客し、公演日に入場者を迎える。やがて終演。帰り際にお客さまが「よかったですねー」って挨拶してくれる。あるいは満ち足りた表情で出てくる。そういう顔の流れの中ではじめて制作を担当した人たちはその意義の大きさを実感するのです。それが大事なの。役者と観客の間をつなぐ仕事をする人が育つようにしていかなければいけません。
西 これからはそういう創り方をやっていくってことがね、これからの時代、観客を引きつけていくということにつながるんだと思いますね。
清 私たちだって能楽座で地方に公演に行くと、単に公共団体がパッケージで能をやりますよ、というのとは大分違う雰囲気を感じますよね、現地の人たちと出会うってことがありますし。
荻 あるとき地方の公演で感動的だったのはね、公演が始まるころに、市の職員さんが「市長さん、お席を用意しました」って言って、正面のいいところのお席を「あそこです」って案内したら、市長さんが「おれはあんなところに座らないよ」っておっしゃった。「おれはここの市長だろ」「市が皆さんをお呼びしてるんだよ」「お呼びしてる自分が何であんなとこに座らないといけないんだ」って。そういう風に諭してました。で、私はそのとき会場の上の方の隅のところに座ってみてたんだけど、市長さんは私の隣りにきてずっと観てらした。で、終演後、市長さんはちゃんとロビーに出ていかれて、皆さんのご挨拶を受けてる、そうすると、お客さまが「市長さーん! よかったですね、また能の公演をしてくださいよ」って握手を求めている。能に取り組むのは初めての市の職員の人たちが一生懸命にやるってことが大事なのよ。


■ 役者の心構えが観客を育てる

荻 メディアを動かして話題づくりをしようとしたって、実際の舞台によっては偽りであることもある。華やかな話題づくりもよいけれど、私は好きではない。役者さんたちが一生懸命にならざるを得ないような、というか、良い緊張関係が成り立つ観客、良くなかった時はそういう反応がかえってくる観客、そういう客席を作っていくことの方が大事かなぁって私は思う。
 だけど、それにはどうしたらいいかって、まだ迷っている。よかったなんて思うことはひとつもなくて、もっとこうすればよかったああすればよかったってことの方が多いですよ。いつも相手は違うから。
 公演はお客さまが大勢入らなくっちゃ困るんで、それは大切なことなのだけれど、満席にすることが目標ではなくて、銕仙会なら銕仙会はこの線以下には落ちない底力のある集団であってほしい。能に対してどういう考え方をもち、その目指すものは何なのか、個々の個性が生かされながら、集団のこころざしが感じられるようなものであってほしいと思います。●
 
平成十七年五月二日・四日・五日
銕仙会能楽研修所にて
聞き手・清水 寛二/西村 高夫/長谷部 好彦/島田 高至


荻原 達子 おぎはら たつこ

長野県岡谷市生まれ。東京女子大学短期大学部卒。
能楽書林の編集部を経て、社団法人銕仙会の事務局長。退職後、同人組織の能楽座のゼネラル・マネージャーを務める。また、様々な分野でコーディネーターを務め、一貫して能・狂言の伝統の継承と創造活動を支え、国内外を問わずあらゆる種類の能・狂言公演を手がける。二〇〇一年には、「観世寿夫著作集」(共編/平凡社)をもとに手頃な文庫本「観世寿夫│世阿弥を読む」(平凡社ライブラリー)を再編集。他に、「狂言辞典」(共編/東京堂出版/一九六六年)がある。
   【レポート】第16回 響の会公演報告
 去る五月二十一日(土)、宝生能楽堂において、第十六回 響の会(能「田村 替装束」シテ・西村高夫/狂言「秀句傘」シテ・山本東次郎/能「道成寺」シテ・清水寛二)が開催され、お陰様をもちまして、大盛況のうちに終了いたしました。この場をお借りいたしまして、ご来場いただいた皆様に篤く御礼申し上げます。
 本公演はチケット発売から約一ヶ月半で完売となりましたため、その後お申し込みをいただいたお客様にはやむを得ずお断りすることとなりました。ご要望にお応えできず大変申し訳ございませんでした。心よりお詫び申し上げます。

 なお、当日ご来場いただきましたお客様の総数は四百六十二名でした。
 今回初めての試みとして、ロビーに「響の会のあゆみ 1991〜2004」と題してこれまでの演能写真を展示、また、場内アナウンスの放送、アンケート用ハガキの配布、などを実施いたしました。今後ともよりよい企画・制作の参考とさせていただきますので、是非とも皆様の忌憚なきご意見・ご感想をお寄せください。
 公演に続き、五月二十九日(日)には響の会の集いを、市谷亀岡八幡宮集会所にて開催いたしました。参加された方からは「田村」「道成寺」について、率直なご感想やご質問を多数頂戴いたしました。装束を選ぶ過程や乱拍子の話など、充実した時間となりました。お忙しい中をご参加頂いた皆様、
誠にありがとうございました。●
文・平尾 幸子



ご来場御礼

 先日は第十六回響の会に大勢様お越しくださり、誠にありがとうございました。いかがご覧いただけましたでしょうか。まだまだそれぞれの課題も大きく、先へ進むのにもなかなかではありますが、舞台の上でも多くの方々のお力添えを頂戴でき、また新たな気持ちで次のステップの響の会を作ってまいります所存です。どうぞ皆様これからの響の会をご支援のほどよろしくお願いいたします。
 山本東次郎氏が終演後、「『秀句傘』はあまりやらないのですが、今日は良いお客様でとても演じやすかった」と、仰っていました。私たちも皆様の熱い視線の中で能を舞えましたことは大きな喜びです。ありがとうございます。

 またどうぞご感想ご意見等ございましたら、ご遠慮なくお聞かせください。
 今年は海外での公演や新作能の仕事も多くありますが、この秋の研究公演に向けて響の会は歩んでまいります。本年残す各公演へのご来場、心よりお待ち申し上げます。

響の会
清水寛二・西村高夫
   【寄稿】伊藤悠可氏「舞台に降り立つもの」
 気が付いたら泣いていた。花がゆらめき紫紺の空を舞い、淡い芳香を留めて、自分も桜の木陰に寄り添っていたらしい。田村麻呂の霊にさらわれ、鈴鹿の戦に地響きを聴き、伊勢の海辺に燦々と波間に注ぐ光を見た。激しく速く、そして懐かしい気に包まれた。
 道成寺ではもう不意に襲われたとしか言いようがない。おかしな表現だが、私は自分の頬に伝っているものを知らなかった。化身の蛇は渾身の力で挑む。僧の法力に橋掛かりまで押し戻され体がしなる。シテ柱に半身が隠れ次に背が見えた時、はうと涙が溢れ出た。初めて蛇ではなく自分が泣いているのだとわかった。
 一体、何が起きたのだろう。なぜこんなに気持ちを揺さぶるのか。揚幕に演者が去り拍手が起こり、私はハンカチで始末をしてから、洗面所で眼を冷やした。何だか恥ずかしかった。
 能楽堂を出てから夕暮れの神楽坂を歩いた。久しく訪ねない間に、新しい雑貨店やカフェが立ち並び若者で賑わっていた。雑踏の中にあの笛の音が鳴り、大鼓は虚空に響いた。ふっとまた涙が襲うかもしれないと思った。
 随分昔、母に連れられ「松風」を観たことがある。だが、十代半ばの私には殆ど記憶がない。松風と憶えているのは生家が須磨に近いからで、暮れかけた砂浜や松林から臨む海原が余所のものでなく、お前がいつも遊んでいた海辺だ、と母から聞いたのだろう。大人というのはわからない、この堅苦しい見せ物の何処が楽しいのかと窮屈を訴え、隣で静かにさせられていたに違いない。
 社会人になり、取材で薪能を一度遠見した。ほぼカメラマンの従者に廻り、自分は歳時記風に記事をまとめて心に留めず過ぎた。あとは教育テレビで一二度観ただけで、一つは「葵上」、もう一つは忘れた。葵上も生霊や物忌みについて書け、と編集者に言われたからで資料漁りに過ぎなかった。
 同僚や先輩から観能を薦められたことが幾度かあった。或る婦人は能の素晴らしさ、奥深さを手振り身振り説いてくれた。彼女たちは何十番と見てきた玄人、こちらは全くの門外だから仕方ないが、天の邪鬼もはたらいて、能への讃辞と蓄積した知識を披瀝されると却って軽い反感を覚えた。それに仕事に追われるだけの生活をしていた私には、婦人の話は悠長すぎた。美しさに酔ったという話も有閑の人の自慢くらいにしか聞こえなかった。かたくなさと先入見があると、人間損をする。あれから二十余年、私は損をしていたのだ。

 能楽には「蘭位」というものがあるという。演ずる人達が追求する至極の境地だと師に聞いてその言葉だけ憶えている。幾人もの素晴らしい演者が顔を揃え協力したとしても、なかなか思い通りにいかないが、その求道の途上で、時に霊妙としか表現出来ない境地が浮き上がる瞬間があるらしい。
 演者も観衆もただ恍惚として夢幻の奥地に浮かんでしまう。そうした境地は能楽だけではないのかもしれないが、この日私は仄かに忘我に誘われた。思量を超えた非思量というのだろうか。そんなものに触れた気がした。
 春頃から、偶々ゲェテ晩年の課題「ダス・デモーニッシェ」を調べる用事があった。デモーニッシュなるもの、と言ってしまえば語感を伴わないが、小林秀雄が『モオツァルト』で〈悪魔的なもの〉と置き換え、私の師はこれを〈鬼神の手〉と訳して論究した。
 鬼神は神に似ているが神ではない。人間に似ているが人間的なものでもない。天使に似ているが天使でもない。神の理性、人間の悟性、天使の善良とは異なる性質を具え、しかも、しばしば人間を選び人間と交渉し、誰も太刀打ち出来ない詩や音楽や絵を作らせる。その支配力の強大さゆえに感嘆ばかりか畏怖が伴うこともある。「人間どもをからかう為に、悪魔が発明した」と小林秀雄は書くしかなかったが、能楽の奥地にもその至妙を描いた人々があったし、今もあるだろうと想像するのは愉快なことだ。
 もとは神々への奉納であった能楽。神道の古法には鎮魂の行があり、石笛の音霊による帰神の式も行われた。舞台は宇宙であり、時間と空間を易々と超える。「一人一人に憑きよりて守り給へ」と祝詞にも例がある。伝統には常に新しい生命を賦与する使命が課せられる。能役者に感応する何かが舞台に降り立つ瞬間を、古人は蘭位と呼んだのだろうか。
 響の会から五日ほど経て、ふと小林秀雄の「當麻」を思い出して読んだ。この小篇は学生時代から何度か目を通しているが、どうしたものか手触りがなかった。今度、改めて読み返すと、氏の言いたいことが全部わかった気がした。
 してみると、過去に能を観るよう薦めてくれた婦人も、彼女の推奨の仕方が拙かったのではなかった。能を言葉にする、ということ自体実は困難なのだ、と初めて了解した。
 道成寺は「響の会」にとって記念碑的な意味があると聞いた。数十番、百番と観てきた人も、今日その日に観る能は一度きりで、二度と同じものには遇えない。私は凄いものに遭遇し、今も揺さぶられているのである。●
(いとう ゆうか・作家)
   【寄稿】表きよし氏「響の会を観て」
 もうかなり前のことになるが、清水寛二さんが住んでいる座間市で能・狂言入門講座を担当させていただいた。何回か講義を聞いてから鑑賞に行くという形だったせいか、かなり好評で、その後も何度か講座を行い、清水さんに役者の立場から話をしてもらったこともあった。その講座の参加者の方々が能を鑑賞するサークルを立ち上げ、年に二回、私の事前講義を聞いて能楽を鑑賞するという活動を続けて十年目になった。鑑賞に行くことのできる時間や料金との関係から、国立能楽堂の水曜午後の公演を主に鑑賞しているが、いつかは「道成寺」を見たいというのがサークルメンバーの希望だった。それがようやく五月の「響の会」で実現した。しかもメンバーにはお馴染みの清水さんがシテを勤めるとあって、期待に満ち満ちたメンバーたちは開場前から宝生能楽堂に集まっていた。
 終演後に喫茶店で一息ついたが、長時間の鑑賞でいささか疲れ気味ではあったものの、手ごたえ十分の鑑賞にメンバーはかなり興奮気味だった。能「田村」では西村高夫さん演じる後シテの華やかな扮装と迫力のある演技に圧倒されたようだ。狂言「秀句傘」では山本東次郎さんの演技力を賞賛する声が多かった。そして能「道成寺」では、清水さんの安定感がありしかも力のこもった演技によって、メンバーは皆その面白さを堪能できたようだ。関心が集まったのは、鐘の中でどのように扮装を替えるのかという点だった。鐘の後ろのどこかから面や装束を後見が差し入れるのではないかという意見も出たが、鐘の中に棚が設けられていることなどは観客にはわからないから、あらためて「道成寺」の奥深さを認識させられる話だった。今回は都合で鑑賞できなかったメンバーも多く、早くも来年の西村さんの「道成寺」に期待が寄せられている。
 ところで、私の勤務している国士舘大学 世紀アジア学部には、日本の伝統文化を体験する伝統諸道科目というものがある。茶道・華道・日本舞踊などのほか「謡・仕舞」があり、清水さんに担当していただいている。私が能に関する基本的な事柄を講義し、清水さんが実技を教えるという形を取っているが、ほとんどの学生が謡・仕舞とはどういうものか知らないで受講するので、実技指導は困難を極めている。日本人学生だけでなく中国・韓国・ベトナム・キルギスなどの留学生も混じっており、謡の内容を解説しながら実技指導に奮闘する清水さんの姿を眺めつつ、無理なお願いを引き受けていただき、有り難く、また申し訳なく思っている。
 この「謡・仕舞」やそのほかの私の講義を受講している学生を連れて、七月四日に新作能「一石仙人」を鑑賞した。場所が新宿文化センターだったので授業が終わってからでも間に合うことと、ホールでの上演なので学生にとっては気軽に鑑賞できると考えたからなのだが、相対性理論と能という異色の組み合わせに学生はいささかとまどったようだ。ホールという環境を生かした演出はなかなか面白く、内容的には難しい部分もあったが見ごたえのある作品に仕上がっていたと思う。終演後、新宿駅まで歩きながら学生の感想を聞いたところ、今度は能楽堂で現行曲を見てみたいという声が圧倒的だった。謡・仕舞を習い始めてまだ三か月程度の学生たちであるが、ホールでの新作能には違和感があったようだ。能が少しずつ学生に浸透し始めているように感じられて、面白い発見だった。●
(おもて きよし・国士舘大学 世紀アジア学部教授)
   【ゲストエッセイ】助川治氏(観世流太鼓方)「出端も恐ろしい」
 昭和五十二年、まだ書生時代であったが、観世会から初めてお役を頂戴した。曲目は「鵺」。後ジテの出の出端と後の謡のアシラヒで、太鼓を打っている時間は約三分。未熟な太鼓方の初役としては無難な曲として考えられたのであろう。
 お申合を見に来て下さった先生は「出端が違う」。
お稽古通りに打ったつもりであったが、何がどう違うのだろう、答がみつからなかった。しばらしくして思い当たった事は、致命的なことだった。何が登場するのか考えていなかったのである。 「頭は猿、尾は蛇、足手は虎、鳴く声は鵺に似た…」。鵺という正体不明の恐ろしい怪獣を思い浮かべなければならなかったのである。
 ところで、出端の他に太鼓の入る登場音楽としては、早笛、下り端、大ベシ、真ノ来序、乱序があるが、各々登場する役柄設定に大体の決まりがある。真ノ来序は皇帝に限定、大ベシは天狗等、下り端は天女等。ところが出端にはその決まりが無い。すなわち、あらゆるものが、あらゆる感情を持って登場するのである。そして、すべての登場音楽の六十パーセントに当る八十一もの数を出端が占めている(当流手附本による”出のイロエ“と称するものも含めて)。
 これを打ち分けなければならないのか…
 「出端も恐ろしい」。●
   【ゲストエッセイ】白坂信行氏(高安流大鼓方)「響の会の舞台を終えて」
 清水さん、西村さん、両先輩に初めてお目にかかったのは、私が柿原崇志師の元で修行を始めた頃でした。
 当時何も分からない私に稽古能のあとなど色々話しかけて下さり、今思い返せば能の厳しさ、楽しさなどを教えていただいたような気が致します。私は現在、九州で活動しておりますが、青山の稽古能が自分の原点であると最近強く感じております。
 先日久しぶりに「響の会」で『田村』を打たせていただきましたが、シテ(西村さん)の後ろ姿には、忘れようのない銕之亟先生の面影が見えた様な気が致しました。地謡も順之先生をはじめとして、きっちりとしたコミの中に力強いハコビが有り、大鼓を打ちながら一緒に息が出来る事の嬉しさを感じました。
 私のような未熟者が生意気な事を申しましたが、私たちは「能役者」としてお客様に良い舞台を観ていただく事、感じていただく事が全てです。その為には皆がそれぞれの思いを尊重し、またぶつけ合い、力を合わせて一つの舞台を創って行かねばならないと私は思っております。
 シテ方として思いを持ち、その思いをぶつける為に創った場が、お客様に支持されて回を重ねて行く……。簡単なようで何と難しく険しい道でしょうか……。
 お二人の思いがお客様の心に大きな響となって、それがお二人の目指す能の未来へとつながって行きます事を信じております。●
   【レポート】第26回研究公演報告 アンケートから
 昨年に引き続き本年も、シテに観世榮夫氏、ワキに宝生閑氏を迎えての袴能「砧」が実現いたしました。かつては夏の時期によく催されたという「袴能」ですが、初めてご覧になった方も多かったようです。アンケートでは袴能ならではの味わい、凄みに対するご意見を多くいただきました。また、舞囃子「天鼓」は響の会同人の清水寛二が勤め、盤渉のリズム感豊かな舞で会場を魅了しました。(来場者総数・百九十一名)
 今回も、ご回答いただいた公演アンケートから一部をご紹介いたします。当日会場に足をお運びくださった全てのお客様、そしてアンケートにご協力くださった皆様にこの場をお借りして篤く御礼申し上げます。●

(※掲載のアンケートはこちらをご覧下さい→CLUB HIBIKI《公演アンケート》

[来場者数・百九十一名/アンケート総数・五十三通]
文・まとめ 大久保 利佳/三上 麻衣子
   【解説】長谷部好彦(響の会通信編集委員)「別離と回復」
 「砧」─ 訴訟のため都に出た夫と、九州・蘆屋でその帰りを待ち続ける妻。
 「花筐」─ 帝位を継ぐため都に向かう男大迹皇子と、越前・味間野に取り残された照日。
 同じ男と女の別れでも、「砧」の女と「花筐」の照日とでは全く異質。照日が自ら継体帝(男大迹)の紅葉狩に乱入し王妃の地位を取り戻すのに対し、砧の女は絶望に深く沈潜しやがて死に至る。夫への想いを砧打つ音に託すのは、その心の傷が、もはや現実的な手段では癒されぬことを示すのではないか。内面を深く抉る個人救済劇「砧」と、大和と越(北陸)の王権交流の政治劇「花筐」の差がそこにはある。
 数少ない男物狂の能である「高野物狂」はどうか。亡父を弔うため高野山に出家する春満と、常陸からそれを追う守り役・高師四郎。代理父としての四郎と、その愛情・忠義からすりぬけようとする春満。何かを伝えようとする中年と、それを完全には受け取りえない青年。世代を超えた苦悩する二人の男のぶつかり合いこそが、この曲の本質ではないのか。
 人間の別離とその回復、それが三曲に通底するモチーフと言える。●
   編集後記
▼前号発刊から早一年。この間内外から「通信まだ?」という有難くも耳に痛い声。ご寄稿頂いた方々には早くに入稿して頂きながら、結局発刊は予定より数ヶ月の遅延。衷心よりお詫び申し上げます、お待たせしました。▼WEBサイトも公開からまもなく一年。お陰様で今日までアクセス数は右肩上がり。だが、同人二人へのファンレター(メール)はあまり届きません。お願いするものじゃないけれど「送って下さい」。▼芸術の秋、能楽の秋、響の秋、本年あと三公演、皆様のご来場、心よりお待ち申し上げます。●(S)
←前のページに戻る このページのトップへ↑
サイトマップ著作権について免責事項プライバシーポリシー