響の会〔清水寛二・西村高夫〕
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「響の会通信 vol.8」2006年10月発行
●コンテンツ
特集: 「宝生閑氏が語る、能の現在と未来。」
レポート: 飯塚恵理人氏
「響の会第1回名古屋公演報告」
レポート: 15周年記念第17回響の会公演報告
アンケートから
エッセイ: 清水寛二「玉陵 二つの死との対面」
エッセイ: 西村高夫「行為と評価の雑学的考察」
寄稿: 黄伝棄市「道成寺日高川るぽ
河の流れに身をまかせ」
ご案内: 響の会 公演予定/響の会の集いのご案内
   【特集】「宝生閑氏が語る、能の現在と未来。」
西村高夫(以下、西村) 前回は荻原さん(荻原達子氏・能楽プロデューサー)にお話を伺いまして。それこそ昔話でも結構ですし、今の能界で気になることなどをお話頂けたらと思います。
宝生閑(以下、宝生) 気になることは沢山ある。明治以降能が近代化してから、それまでの能とは変わってきたことは確かなんだ。明治以前は江戸式楽を受け継いできたわけです。私たちはそれを現代の欧米化された感覚でどう敷衍するかでやってきたけれど。その中で響の会のような新しい会も出来てくる訳だけど。江戸式楽で能の形がいったんは固まって、そのお陰で能が今に残ったということもある。江戸式楽で良かったのは稽古の積み重ねが出来たこと。それが現代になると新しい所に目移りして、古典への捉え方が疎かになってきたと思う。江戸式楽のもとでは完成されたものを舞台で具現する態度だったのが、今はそうではなくて「人に見せる」要素が強くなって来てるよね。見せるのはもちろん興業だから大事だけれど、江戸式楽ではいわゆる興業という形でやってなかったと思うんだ。いまの能の興業の形がどうあるべきか、というのが難しいところでね。時代との誤差がある。稽古の形も変わってきたと思う。いまの稽古の大半は頭で考えてやってる。昔は「駄目」と言われてどう頑張るかが稽古だったんだ。頭で考えた能が増えてきたことが心配かな。昔は太夫しか舞わなかったから、良いものが具現していたと思う。誰でも舞うという時代になるとね、それだけの稽古の量が取れない。それをどう変えていくかというのが問題。

長谷部好彦(以下、長谷部) 観客の側をご覧になっていかがですか?
宝生 昔は読む本の種類も少なかったから、古典に触れる人も多かったと思う。だから能も受け入れやすかった。変わった見方から言うと、能の言葉が分からなくても見て下さる方がいるよね。ミュージカル的な感覚で見るような。同じ日本語だから分かるだろうって思って見ると、能はちんぷんかんぷんだからね。そういう所が現代と繋がりにくい所だと思うな。だから演劇を見るように、何を表現しようとしているのかをきちんと見る、という態度が観客の側にも育ってくるといいよね。能はとっつきにくいというのは確かにあるけれど、初心者の興味をどうこちらに向けていくかが課題だね。日本の教育そのものも変わってほしい。数字の教育だけでなく、古典や言葉や心の部分を育てていかないと。その弱さが日本人の観劇下手を生んでるんじゃないかな。言葉が分からなくてもオペラは見る訳だ。だけど能では眠ってしまう。古典に題材があって、表現する側からいえば一つの心が伝わるものなのに、それがきちんと見られないというのは悲しいね。昔は食えなくても稽古してたからね。現代だと、生活と結びついてしまうところが難しいよね。大事なのは、食えなくてもやれる奴がいるかってこと。今のように舞台に出て(出勤料で)暮らしを立てていくことになると、数も増えるし完成度も落ちるよね。江戸時代のように扶持で暮らしていたときより舞台数は増やさないといけない。でも稽古の積み重ねが舞台で完成するってことは減ってくる。
長谷部 観客と役者両方に問題があるということですね。
宝生 そうだね。観客をいかに動員するかが今の興業の課題だけど。でも能の観客層というのは少ない訳です。一日興業だし、大きな劇場だとやりにくい。大きな劇場でも出来るけれど、遠くのお客様には心が伝わらない。舞台の心がね。だから能舞台が出来たのだけれども。昔はお殿様一人が見ることもあった訳です。一人に見せるって大変なんだ。たった一人を退屈させないっていうのは。間違ったら腹を切るという覚悟でやるということは、これからは難しいだろうけれど、そういう役者が欲しいし、そうやって創っていかなきゃならない。でも今難しいのは、いい役者が一つの舞台に出会うってことが少なくなってきたこと。興業が重なるから。ワキ方だから考えなくてもいいか、と思ったりもするけどね(笑)。それは冗談だけど。
長谷部 ワキ方だから見えることも多いですよね。
宝生 舞台全体が見えるからね。黙って見てる訳だから。正直これではお客様が退屈だなって思うときもあるしね。これはどうにかしなきゃということが、ワキ座にいるだけじゃ出来ないじゃない。「こうしろ」とは言えないから。

西村 僕らが最初の頃能を観たときは、シテだけではなく囃子方やワキ方や狂言方どこかに光る方がいて、舞台を魅力的なものにしていました。
宝生 ある意味で分業制にしてよかったのは、その部分を懸命に稽古できるってことだよね。シテもワキもやらなきゃいけない時代は大変だったと思う。あれもこれも、というのでは上手くいかないだろうし。そこでいい舞台を創っていくときに、分業にした方がパーツパーツを懸命に稽古できるってことになったんだと思う。力を集中できると。何でも出来る天才がいればいいけれど、そんな奴はいないからね。でも分業が行き過ぎると、お互い話が出来なくなっていくんだ。「ここはこう舞うんだ」というのを分かり合った役者が舞台を創る方が、やっぱり曲に馴染める。全部の役がそうなっていかなきゃならない。自分の手組だけ打ってる囃子方ほどつまらないものはないからね。忙しくなるとそこが上手くいかない。舞台の数だけをこなす、ということになってね。これからはそこをどう創っていくかが大変だね。
長谷部 お互いの役のことをよく分かった上での舞台が、先ほど仰られた完成された舞台、ということでしょうか。
宝生 そうだね。今もそれをやろうとしているけれど、忙しくなると自分の所しか分からなくなってしまう。全体のことを知らないで、自分のことだけやってればいいというふうになりがちだね。

長谷部 響の会のような個人の会がここ数十年で増えてきて、それが全体の公演数を押し上げている状況もあります。そのことと稽古の質との関わりはどうでしょう?
宝生 稽古したことは表現したくなるけれど、それをどうしたらいい形で具現化できるかが問題なんだ。会が増えるのは一向に構わない。でもお客様に「面白い」と思って頂ける舞台がいくつ出来るのか。
西村 役者としても、お客様にアピールする能と自分の修練を高める能との間で迷う部分があります。
宝生 自分がやりたいものをやるという感覚だけでは素人能なんだよ。こういう曲をやりたい、という人は沢山いても、〈井筒〉のワキをやりたいという人は少ないでしょう。そこが問題だ。しかも能は観客数が少ない割りに、出演者は多いから、自然と切符も高くなってしまう。それをどう変えられるか…。
長谷部 役者のギャラも相対的に下げることも必要でしょうか。お互いが払い合っているわけですよね。それがお互いの首を絞めあっている部分はないですか?
宝生 それが出来ればいいけれど。でも払い合わざるを得ない部分もある。昔は食細くとも気は高く、という人が能をやっていたけれど。今のように飽食の時代になって生活水準も上がってくると、出費も増える。ある程度収入がないと能を維持できないことにもなる。昔は能楽師は車なんて持ってなかったけれど、今は平気で買えるようになったからね(笑)。月並能もこれからが難しい。昔は稽古能の延長だった訳です。それでも大きなスポンサーが付いてたから出来たけれど。今は興業の要素が入ってくるから難しい。お客様にとっては安い方がいい。でもそれで良い舞台が維持できるか。昔は限られた役者しか舞台に立たなかったから、質を維持できた。出来ない役者は舞台に出さないということも現代では出来ない。今のように誰もが舞うということになるとね。
長谷部 例会が各会の負担になってくるのでしょうか?
宝生 興業として成り立てようとすると難しい。月並能を昔のように稽古能の延長の形に戻して、その分出勤料も安くする形にしないと難しいかもしれない。
長谷部 そういう所も今はあるようです。
宝生 そうしてしまうと、逆に自分の首を絞めることにもなりかねない。でも興業と月並能のバランスが難しい所は、月並能を稽古能に戻してもいいかもしれない。プライドとしてそうはいかない部分もあるだろうが。
西村 経済的な基盤をどう立て直すかが、今の能界の大きな課題ではないでしょうか?新たなスポンサーを獲得するか、助成金に頼るか。今の興業の形にも限界があるように思います。
宝生 スポンサーだってやみくもに出してくれる訳ではない。国がスポンサーになることもいいかもしれないが、昔のようにお殿様がそれぞれの国でお抱えの役者に舞わせるならよいのだろうが、もし役者の基準を国が持つことになって、現代において「お前はいい」「お前は駄目」って言えるだろうか。現代の仕組みの中でだって国がいい形で役者を選んでいるとは思わないしね。
長谷部 国家からの強い保護、ということになると、
役者や制作の自主性が損なわれるということでしょうか?
宝生 保護されることによって、ただやればいいという甘えが出来ても良くないだろうし。今だって国から助成は頂いてますが、とてもワキ方を育てられる額ではないし。
長谷部 そうするとご自身で出す、ということになりますよね。
宝生 それは仕方ない部分です。ワキ方を育てるのは大変なんだ。まず座れなくてはならない。ある程度技術がなくてはいけない。シテ方のように子方の機会もほとんどない。ワキの役というのは年寄りの役が多い訳です。能によく出てくる旅僧というのは当時の知識層でもある訳ですから。青二才が座ってればいい、というものではない。文学的な素養や、旅の知恵、とくに地図は完全に諳んじてなきゃいけないだろうし。どこにどんな物語があったかも知っておく必要がある。言葉だけ教わって座ってるだけではワキは出来ない。どうしても役者としての年輪が必要なんだ。シテ方は地謡で曲を学ぶことが出来ますが、ワキにはワキツレしかない。若いうちは何がなんだか分からないまま座ってることもあるんですが。曲の背景を想像できる役者しかワキは出来ない。でもそこまで行くのが難しいんだ。

長谷部 最近早稲田大学の下掛宝生会も復活されたそうですが、若い世代に向けて何か。
宝生 日本という国をもっと知ってほしい。特に優れた日本の古典文学、それを具現化する能という演劇があるということを知ってほしい。ヨーロッパの方が能の特質を客観的に捉えていると思う。音階のきっちりした西洋音楽と比べて、能はどんな音で始まるか分からない。一つの音階に調律せず、その人の声帯で全てを表現しようとする。それは若い人に知ってほしい能の素敵さ、日本の芸能の面白さだと思う。能は皆が同じ音で謡う訳ではないし、同じ曲でも毎回違う訳です。世阿弥の頃はそうでなかったようですが。今は江戸式楽からいったん近代化した能が、式楽としての質を取り戻してゆく時期かもしれない。国内の状況は厳しいですが、世界遺産に認められたことで、少しは良くなると思う。役者の数はあまり増えない方がいいかもしれない。そのためにも今いる者が懸命に稽古しなくちゃならない。能の場合は技術がなくても、四十年くらい懸命にやると立派なものが出来たんです。四十年我慢するというのは凄いことだけど、昔の人は耐えたんです。
西村 年齢的なことを考えても本当に今やっていかなければ…と思います。考えてるばかりでもいけませんし。そのためにも、通信やウェブでの活動も平行して探っている訳ですが…。
宝生 時人を待たず、というしね。限られた時間の中で創っていかなければならないのは確か。自分に与えられた時間で、見た人に一つの感覚を与えて、残せるか、というのが大事。それが演劇の難しさだと思う。その場で見た人しか分からない訳だから。その上でどう自分の時間を残すか、ということも考えてほしい。舞台大事で考えてほしいんだな。後へ繋げられるかどうか。
長谷部 本日は貴重なお話を有難うございました。●

聞き手・西村 高夫/長谷部 好彦
interviewed by Takao Nishimura, Yoshihiko Hasebe
〔二〇〇六年三月十四日・東京都内の宝生閑氏宅にて〕
※一部抜粋を第十七回響の会パンフレットに掲載いたしました

宝生 閑〔ほうしょう かん〕
ワキ方下掛宝生流宗家。昭和9年東京生まれ。故宝生弥一の長男。父及び祖父の故宝生新に師事。平成2年観世寿夫記念法政大学能楽賞、平成3年日本芸術院賞、平成8年紫綬褒章、ほか受賞多数。平成6年より重要無形文化財各個指定(人間国宝)。日本芸術院会員。東京都在住。
   【レポート】飯塚恵理人氏「響の会 第1回名古屋公演報告」
 名古屋で、東京そのままの能が観られたらいいなあという事は、名古屋の能楽好きの間では、しばしば話題に出ていたことだった。銕仙会の学生会員で、大学・大学院時代能楽堂に通い詰めていた私にしてみれば、今の銕仙会は是非観たい。しかし、東京まで往復二万円以上払って観に行くのはなかなか難しい。丸ごと名古屋に引越し公演をして貰えないかなあという虫の良い思いは持っていた。今回の響の会 名古屋公演は、「響の会」という形で、今の銕仙会の実力を名古屋の人に見せてくれる、そういう大変有難い企画であったと思う。そして、私にしてみれば、私が大学時代銕仙会を観て、能ってなんて面白いのだろうと思ったように、名古屋で新しい観客を掘り起こしたいという思いもあった。「響の会」は紛れもなく「本物」の芸を見せることが出来る催しである。学生にも「本物」はわかる。「響の会」は初めて能を観る人にぜひ多く来て欲しいと思った。

 西村氏は名古屋での能楽の普及に大変熱心だった。わたしが名古屋市生涯学習センターと椙山女学園大学連携の社会人講座を引き受けた時には、僅か四十名の受講生のために、二回も無料で「船弁慶」の謡い方について講義して下さった。面や装束も持ってきて見せて下さったのだが、これは受講生には大好評だった。この講座で、「どうせならば夫婦で観たい」と言われた方が多くあり、六十枚近く切符が売れた。西村氏が大学生を特に優遇してくださったため、椙山女学園大学と愛知県立大学の講義で船弁慶と葛城を取り上げた。結局百名近くの学生が来てくれた。私はイヤホンガイドも担当させていただいたが、これも大変勉強になった。私から切符を買って下さった方は、学生が主体なので当然といえば当然なのだが、ほとんどの人が能をそれ以前にみたことがない人だった。「響の会」は平成十七年度の名古屋の催しで、間違いなく初めて能を観た人が最も多い会であったと思う。私にとって、大変勉強になったのは、大学やカルチャーセンターの講義形式として、ワークショップ形式が非常に効果があるという事だった。役者自身が「どう演じる」のかをその場で解説して、しかも自分が「声を出してみる」というのは能を初めて観る観客にとって非常に分かりやすい。とくに自分が「謡った」場面については注目して舞台を見たようだ。地元メディアである「能楽の友」は二回にわたって「響の会」を取り上げ、中日新聞も催しの直前に西村氏を記事で取り上げた。当日券の販売も順調だったと聞いているが、これは間違いなく「能楽の友」と中日新聞の効果であろう。「響の会」を観た学生の評判はとてもよかった。また能を観たいという感想も多かった。ただ、同人の清水氏・西村氏も事務局の方も、慣れない名古屋での広報や切符の販売はとても大変だったと思う。関係の方々のご苦労に心より感謝申し上げたい。名古屋市と大学連携講座のほうは、昨年に続き私に依頼があった。これは西村氏が好評だったからである。西村氏にはもし名古屋の稽古日と重なるようであればぜひ御願いしたい。そしてもし先生方がまだ懲りていらっしゃらなければ、将来名古屋で、小規模で、名古屋に縁のある能楽師さんを交えた、名古屋弁でいうところの「値打ちな」響の会を開いて頂ければ幸いである。●
〔いいづかえりと・椙山女学園大学文化情報学部助教授〕

「響の会 第1回名古屋公演」写真アルバムはこちら→
   【レポート】「15周年記念第17回響の会公演報告」
 去る4月30日(日)に、宝生能楽堂において、15周年記念 第17回 響の会(能〈花月〉シテ・清水寛二/狂言〈樋の酒〉シテ・野村万蔵/能〈道成寺 赤頭〉シテ・西村高夫)が開催されました。お陰様をもちまして、大盛況のうちに終演を迎えることができました。ご来場いただきました皆様には、心より篤く御礼申し上げます。
 今回は響の会15周年を記念いたしまして、ポストカードを作成し、ご来場いただきました皆様に、心ばかりのお礼として差し上げました。また、昨年に引き続き、ロビーには「響の会のあゆみ 1991〜2005」と題し、これまでの演能写真を展示いたしました。

 なお、当日のご来場者総数は486名でした。また、多くのお客様にはアンケートへのご協力を賜りました。引き続きよりよい企画・制作を目指して参ります上で、参考とさせていただきます。今後とも忌憚なきご意見・ご感想をお寄せいただければ幸いです。
 また、公演に続き5月21日(日)には、市谷亀岡八幡宮集会所にて響の会の集いを開催いたしました。参加された方からは〈道成寺〉〈花月〉について、率直なご感想やご質問を多数頂戴いたしました。また、集い後半にはお酒や肴を囲み、なごやかな雰囲気のなか、親睦会が開かれました。お忙しい中を御参加頂いた皆様、誠にありがとうございました。●
〔文・平尾 幸子〕

【公演アンケートから】
・花月の装束とてもキレイでした。道成寺はとても緊張感あり。気迫が凄かった!(40代・女性)
・藤田大五郎氏、見事だった。(80代・男性)
・すごかったです本当に。心のそこからすごいと思いました。すご過ぎて言葉もでないです。(不明)
・情念と迫力のイキの合った小鼓とおシテ見事でした。鐘入りの瞬間、美しい!(60代・女性)
・花月、少し重くやり過ぎでは。もう少しさらさらと楽しげにやられたらと思いました。(60代・男性)
・使用面を紹介していただけると助かります。装束等についても情報があると嬉しい。(50代)
・昨年と演出が異なり雰囲気が違って面白かった。烏帽子飛ばしも鐘入りも派手で良かった。(40代・男性)
・花月のシテ。華やかさ柔らかさにやや欠けていたが、弓の段などキリっとして格好良かったです。ただ、宝生閑さんと野村萬さんが良かったので埋没してしまっていたかも…。(不明)
・道成寺は声がおどろおどろしていて面白かった。乱拍子は面白さが分からなかった。(20代・男性)
・道成寺、白拍子の執念が鐘に取り憑くまでの昂まる緊張感、その執念を鎮める僧の祈りは、一人の女の苦しみ悲しみにしっかりと寄り添うものでした。アイ狂言が面白かった。(不明)
・花月。老木にさえ真っ白な花が。花といえば桜。その桜の終わったこの季節に現実と重なり切なくなりました。(30代)
・手に汗を握る道成寺でした。舞と鼓が一体となり、鼓の素晴らしさを感じました。(40代・女性)
・道成寺、大小に釘付けでした。(20代・男性)
・お囃子も好きな私としては、これ以上の配役はありません!(50代・女性)
・道成寺、小鼓とシテの乱拍子が作る氷った空間と赤頭の蛇体となっての情念の舞が非常に対照的である。(60代・男性)
〔まとめ・大久保利佳〕

「第17回 響の会」写真アルバムはこちら→
   【エッセイ】清水寛二「玉陵 二つの死との対面」
 昨年度より沖縄の県立芸大で非常勤講師として能を教えている。普段は琉球舞踊や組踊りを専攻している学生諸君が、関連楽劇としての能を体験する集中講義(夏〔九月〕と冬〔二月〕に五日間ずつ、毎日午後一コマ一時間半を三コマ)である。まだ三回しかやっていないが、学生といってもさすがにプロの舞踊家になる人達だからなかなか飲み込みも早く(長時間の正座はつらいらしい)、やり甲斐のある授業を展開する事が出来てうれしい限りである。組踊りに「銘刈子」という羽衣伝説を扱った曲もあるので、まずは能「羽衣」を教材として、十日間で多少省略をしても一曲通してできるようにするのを目標としている。

 さてこの県立芸大は那覇の首里、首里城の下にある。首里は琉球王朝の都、首里城をてっぺんに戴く坂の町である。先の大戦でほとんど破壊されてしまった首里城は現在再建が進んで、美しいその姿を青い空の下に見ることが出来る(再建工事はまだまだ続くようである)。この坂の下のほうに宿を取って毎日首里の坂を歩いて学校へ通う。毎日同じ風景だが、だんだん違う風景が見えてくる。
 坂の途中、首里高校の前に琉球王第二尚氏歴代(十五世紀の初代尚円王より十九代尚泰王とその子尚典候)の墓所「玉陵」がある。私は今回初めて拝観した。背が高く外の見えない石垣に囲まれた境内に、その時私一人だった。正面に苔むした石室が三室、連なっている。真中が洗骨を行う部屋(遺体をそのままにしてしばらくたってその遺骨を水で洗って甕に入れたのだそうだ)、左側が王と王妃の遺骨を納める部屋、右側がそれ以外の王族の遺骨を納める部屋。
 もちろんここも大戦で破壊され、一九七四年より三年余かけて修復したという。どの石が古い石なのだろう。九月の朝とはいえ夏の太陽がぎらぎら照りつける中、私は「王の死」と対面している。彼、尚王の死、尚王朝の死。

 そして、紅型を着たおねえさん達が写真のモデルとなっている守禮の門(この門も再建)をくぐって、まっすぐ首里城内の方へ行かず左へ折れ、今も信仰の対象となっているのでその邪魔をしないようにと注意書きのある「園比屋武御嶽」から「円鑑池」(その中にある弁財天堂ももちろん再建、時折拝む人有り)のほうへ少し降りたところに、木々に覆われて旧日本軍のトーチカ跡(第32軍無線班と書いてあったか)を見つける。円鑑池から道へ出た向かいには山門と石垣だけの円覚寺址。ここにも御願をささげる人を見る。まばゆい首里で私は死と対面している。
 そうだ、沖縄は琉球処分と沖縄戦という政治と兵器による二度の死を経験していたのだ。昨年、長崎浦上天主堂で新作能〈長崎の聖母〉を上演したが、その浦上はキリシタン弾圧と原子爆弾という政治と兵器による二度の死を経験していた。今は平和なたたずまいの浦上、首里の町。空と海の光か、明るいこれらの地で死と対面するのだ。

 琉球芸能(この復元作業も随分と行なわれている)は基本的に明るい。その芸能に携わる人達も明るい。その人達と交わりながら、首里の町を(そしてだんだんと他の町も)歩きながら、能という「死の視点」を持つ芸能者として、この地に潜む死と向き合っていきたいと思っている。

 なお、この稿は当初〈井筒〉の記事になるはずであった。今回響の会の研究公演で再び〈井筒〉を出すについて、私は井筒の女の「西を見る視線」から出発して「死(の世界)から現在の井筒を見る視線」を考えている。だんだん文章にしにくくなって、締め切りを大幅に過ぎ、編集子に迷惑をかけた。やはりこれは舞台をみて頂く外はない。●
   【エッセイ】西村高夫「行為と評価の雑学的考察」
 『十』『百』には『千』や『万』に比べ、満ちるというかある種の達成感のイメージが断然強い。千、万に比べ何とか手の届きそうなイメージの中でのある到達点である。競技等で十点満点を目指して技を磨く。試験で百点満点を目指して勉強する。この目標が達成不可能なものであるなら努力しない。何とか可能性があるからこそ努力する。
 『竹取物語』のかぐや姫も、達成の可能性が限りなく『0』に近いが全く0ではないと思われる課題を要求している。小野小町も十でも千でも万でもない『百夜』通えと言うのだ。努力する者に対して、最初から拒否ではない、可能性が0ではないが限りなく0に近い、努力する方向を示してあげる希望の灯を示すという優しさなのか。

 ある目的に向かって行為(努力)を積み重ねていく。一ツ(一夜)、二ツ(二夜)、三ツ(三夜)とカウント・UPしていく。そこには加点的評価がある。行為に対して点数をつけるのは本意ではないが、満点という目的に近づいていく初期からある時期までは、行為する側もそれを評価する側もある共感を持って同じ方向を見ていられる。行為する側はそれがたとえつらく苦しい事であっても、満点という大義に向かってカウント・UPしているという状況の中で自分の行為に酔える。評価する側もまだ客観的に、むしろほほえましくさえ思え、それを見守っていられる。両者のカウント・UPにまだ同調性があるのだ。

 しかし段々と満点に近づくに従って一点の質量が凝縮され変化していく。今までの同調性に変化が生じてくる。カウント・UPの志向から、カウント・DOWNの志向に変わってくる。あと三点、二点、一点…という風に。そうなってくると今まで同じ方向を見ていられた者同士が、その立場がはっきり違ってくる。それぞれの立場をはっきり認識することになる。行為する側は着々とカウント・DOWNの態勢に入っていくのに対し、評価する側は満点(目的)の側から減点的評価をする事となるのだ。今までの加点的評価によるプラス要因の認識からマイナス要因の認識へと変わってくる。

 深草の少将は『百夜』通ったのであって、行為する側は「今は一夜よ嬉しやとて、待つ日になりぬ、急ぎて行かん、姿はいかに…」(〈通小町〉)と、それまでの姿とは変わって身ごしらえをして百夜目も訪ねて行ったのが、マイナス要因(小町の親の死にまつわる事情か何か)によって行為を評価されず、期待と現実のはざまに絶望悶死してしまう。しかし評価する側の小町は「一夜を待たで死したりし、深草少将のその怨念が身に添いて…」(〈卒都婆小町〉)と、『九十九夜』であって百夜ではないのだ。

 『百』に着くも、それは『九十九』。
 男「少々の事は大目にみろよ」。
 女「こまっちゃう…」。(オソマツ)●
   【寄稿】黄伝 棄市「道成寺日高川るぽ 河の流れに身をまかせ」
 道成寺を出て、ふらふらとさまよいながら、橋を渡り、野口という所まで出る。道中味噌ラーメン大盛を食べ、酒と弁当を仕入れた私は、川沿いのキャンプ場に忍び込む。誰もいない。あの世まで吸い込まれそうな取水口も無い。ここで夜を明かし、日の出と共に川を渡ろう。そう決心して寝袋を広げると、雨が降り始めた。
 傘をさして寝よう。すべてを諦めて横たわると、突如虫の音が響き出す。私はなぜか安心してしまう。さっきまで聞こえていなかったのがおかしいくらいだ…。うとうとしながら、ラーメン屋のおばさんの言葉を思い出す。

―その川が日高川です。龍神いう所から流れてきてて。今年は雨が多かったんですよ。ダムが出来てから、水量が少なくなってねえ。寂しい。今はキャンプ場になってる所も、ぜんぶ川やったんです。川がやせてしまいました…。
 ああ、この虫の音は、河原にねむる亡骸の、語りささやく声なのか…。

 五来重の『熊野詣』(講談社学術文庫)にはかつて日高川に河原墓地あったと記されている。紀の国の森から龍神に集まり流れ来る水が、まるで海のようであった太古、この河原は、人々の魂を受け止め続けていたのだ。生きて死ぬことが川や森と一体であること。私は眠り込みながら、無性にそんな時代が愛おしくなる。水葬や風葬が身近な風景としてなければ、輪廻思想も生まれなかったかもしれない。 

 気が付けば時刻は昼。日の出とともに、などという計画は見事に頓挫。雨は止んでおらず、私は寝袋と一緒にびしょびしょになっていた。さあ、意を決して泳がねばならない。私は泳ぎが苦手だった。さあ!さあ!私は日高川を蛇体となって泳いだあの女のように、見事この川幅を超えなければならない。何人かの友人に「泳いでくる」と言ったからには、もう引っ込みはつかないのだった。
 私は服を脱ぎ出来るだけ身軽になる。そして裸足になって川べりまで降りてゆく。
 川の深さはそれほどでもない。なぜか能〈頼政〉の詞章が頭に浮かぶ。

 …水の逆巻くところをば、岩ありと知るべし…

 能の叡智恐るべし、などと冗談言う暇もなく、私はとにかく川に足を突っ込んでいた。うお。流れは意外と速かった。しかも冷たい。が、もう戻れはしない。こんなレベルで助けも呼べない。私は慎重に一足一足抜き差しを繰り返す。やがて川床のコケに足を滑らせた私は横転してしまう。ぬお。危ないと感じた私は、流れに身をまかせそのまま向こう岸に流れ着こうと思いつく。私はかつてないくらいどきどきしながら、気が着けば対岸の葦にしがみついていた。
 体はとうに冷え切っていた。
頭は妙に冷静だった。道成寺の女はたいしたもんだ…、本気でそう呟いていた。
 しがみついている腕が痺れ出し、私はもう一度川の流れに身を任せる。これでは「鵺」の方が近いみたいだ…。
 復路はなぜか手馴れたもので、あっさりもと居た岸に帰ることができた。流れに逆らわないのがコツですね。
 結局流されながら川岸を往復したので、最初寝た所から随分離れてしまった。私は妙な充実感を抱えて、寝袋と傘を目指して歩くのだった。●
〔おうでんきいち・いち観客〕
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