響の会〔清水寛二・西村高夫〕
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「響の会通信 vol.9」2007年12月発行
●コンテンツ
巻頭言: 西村高夫「需要なき供給」
巻頭言: 清水寛二「ワークショップの事など」
特集: 追悼・荻原達子氏「青山よもやま譚」
寄稿: 茂山千之丞氏 寄稿「お能・お狂言」
対談: 小田幸子氏×清水寛二「昭君をめぐって」
リポート: あづちりこ氏「mixed jam ~ 響の会の集い」
リポート: 第18回 響の会 公演報告
ご案内: 響の会 公演予定/響の会の集いのご案内
   【巻頭言】西村高夫「需要なき供給」
 「需要があって供給する」これは誰もが認める当たり前のことである。我々能役者は舞台に立つ者として、観客に提供(供給)することをまず考えるわけであるが、現在の能の置かれている組織的システムを考えても供給する事だけに励んでいて良いのだろうか? それで良いというならもっともっと各グループの事務所(事務方)の組織改革・意識改革がなされなければ。単なるチラシ・パンフレット作成や出演料の処理など、公演に付随する事務処理に明け暮れる体質を変えなければ。けれど元々能の役者は他のジャンルと比較しても裏方もやらなければならないシステムの中でずーっと長い間これまでやって来ている訳だから、事務方にだけ任せておけばよいという問題ではなく我々役者側も需要を生むということに真剣に目を向けなくてはならない時期に正にさしかかっているのだと思う。
 需要の貯金が尽きかかっている現状の中で、役者として舞台上の供給の貯金は当然の如く継続して増やしていかなければならないのは言うまでもないが、需要の部分の貯金を今後どう創出していくかということを本当に身の痛みとして感じて努力していかなければ“需要なき供給”という事態に陥ってしまう危険性は十分にあると思う。需要と供給の健全なバランスこそが能界にとって必要なことはいうまでもないが、ハッキリ言って、まずは供給ありきの需要後づけ的なこの能界の体質を少しでも変えていかなければ。次時代の若き能界の人達が希望を持ってがんばっていけるように少しでも灯りをともしてあげなければ。我々が先人にしてもらったように。
〈自戒の念をこめて一筆〉●
   【巻頭言】清水寛二「ワークショップの事など」
 今年夏からは新作能のシテが連続し、それはなかなか人に言えぬ苦しさもあったが、仲間と作って行く作業は楽しくもあり、それぞれにある成果を残せたかと思っている。今年全体では、色々な場所での能講座・ワークショップも多く、参加者との交流は大変有意義なものであったと思う。
 たとえば、伊豆七島の新島では十一月に新島ガラスアートセンター二十周年の国際的なワークショップの中で、新島の誕生や火とガラスをテーマにしたパフォーマンスをする機会を得たが、それに先立ち、春に小学校・秋に中学校と全島の子供たちに能を紹介することができた。各々、「船弁
慶」「羽衣」の装束付けと一部実演を中心として構成した。
 またアメリカのボストンでは、新作能「一石仙人」を上演したいと現地の方が声を上げていただいたので、その公演自体は来年以降にということにはなったが、結果としては春・秋二回合計十箇所以上のワークショップを行うことができた。
 春はいくつかの大学などで行い、まずは「羽衣」で行こうと思って準備して行ったのだが、ボストン市内を流れるチャールス・リバーから発想して、「隅田川」の最後の場面をいくつかのワークショップに入れ、好評をいただいた。悲に対しての祝言、日本語学校の幼稚園などではその所作・謡をやった猩々のキリ「つきせぬ宿こそめでたけれ」=「Be Happy!」を各回の最後には全員で謡った。
 秋はボストン美術館などでの開催で、美術館の展示品の中に浮世絵の「巴」の絵があり、所蔵の浮世絵から能の場面のものを紹介して、能の「巴」の後半部の実演を中心にするプログラムを組んでみた。もちろん二人か三人でやることなので限界はあるのだが、かえって素直に皆さんが能のエッセンスを感じてくださるようであった。
 どこもなかなか費用は結果持ち出しというところが多いのだが、能に触れてよかったと言って下さる言葉にそれは代えがたい。つくばの小学校のPTAから響の会宛に直接能講座の申し込みがあったのも嬉しい事で、しばらくはこの能ワークショップの機会を多く持ち、よいものにしていきたいと思っている。●
   【特集】追悼・荻原達子氏インタビュー「青山よもやま譚」
このインタビュー記事は『響の会通信 第7号(2005年10月発刊)』掲載記事「荻原達子氏インタビュー・観客と役者をつなぐ現場から」の取材のため、2005年5月5日に収録され、誌面の
都合上掲載できなかったものを改めて編集し記事としたものです。〔聞き手・清水寛二/編集部(長谷部好彦/島田高至) 編集・清水寛二/野浪恵梨〕

《まずは車の話から》
荻原達子(以下、荻) かつてはこの青山でも此処も向こうも駐車できたんだけど、そのうちに表参道のいいところが停められなくなって、それで先の方に停めてたけど今度はそこもなんだか、わざわざ向こうに歩いていくのもいやらしいから、それで表参道の一つ並行した向う側の通りだと停められたわけ。ここのうち(銕仙会)は玄関のこっちに停められるようになってたけど、運転手が居ないのに大きな車が入ってたからそこに止められなくて。だんだん青空駐車ができなくなって、ある日その向こう側の通りにおいてたら、赤紙(駐車禁止の紙)が張られてて青山のポリスボックスに来いって書いてあって、そのときバンを運転してたんだけど、行ってみたら「なんであんなとこに停めたの」って。「すみません、能の装束運ばなきゃいけないので」って言ったら「優雅な仕事してんのね、じゃあいいよ」って(笑)。一度は、銕仙会の例会の日に水道橋の能楽堂のそばに停めてて、いざ帰ろうとしらまた、壱岐坂のポリスボックスにいらっしゃいって書いてあったので行ったら「あんた、なんでそんなとこ停めとくの」って。「だって水道橋の能楽堂に用事があって来たんですから」って言ったら、「後楽園の競輪に来たんじゃないの?」って言われて「違いますよ、能楽堂ですよ」「あっそう、じゃあいいや」って(笑)。お能のおかげで何度か免れたわ。あの当時は後楽園の競輪のたびにいっぱいになったんですよ、道路が。それでそういうのを徹底的に取り締まったのね。それも、いいやって言われて。だけど、スピードは絶対ダメね(笑)。どんなことがあっても。
編集部(以下、編) 公演に間に合わなくても…
荻 ええ、ダメ。スピードはダメでした。
清水寛二(以下、清) 僕らが居る頃はまだ荻原さんが運転をやってた…
荻 そうそうだから世阿弥座の公演に行く寸前までやってたんですよ。で、寸前に免許の書き換えをしていないことに気がついたの。それで警察行かなきゃと思って行っちゃったのがいけなかったの。警察行かないでそのままほっといて、海外から帰ってきて、忘れていたって言えばよかったけど、警察官が「あんたねぇ、女の人は病院に入ってたって言えば大丈夫なんだよ」って言われたの。その頃は今みたいにお誕生日ごとじゃなかったんですよ。「でも、あんた警察に来ちゃったんだからしょうがねぇよ」って言われちゃって。そのころはこの辺全部駐車できないし、それで三鷹からここへ通うのに、一時間以内ではとてもダメになっちゃったの。もう混んで混んで。だからもういいやこれでやるだけやっちゃったんだからもういいやって免許証放っちゃったでしょ。今考えると、年取れば取るほど、あぁ、免許証があったほうが便利なのにって思うけど…(笑)。ねぇ。
編 もう失効しちゃったんですか?
荻 ええ、もうそのときに手続きしなかったから。それで、もう一度取ろうかと思ったけど、もうめんどくさいからやめちゃった…。みんなが「あんた、七〇になる前に取らないとダメよ」なんて言われたんだけど(笑)だんだんだんだんダメになって。それから、どうやって荷物を運んで…。だから、まぁ、そのときによるよ。タクシーで運ぶときもあるし、誰かが車出すときもあるし。借りてくるときも、大きなバンを借りたりして。最初の頃は寿夫さんだって免許証持ってたのよ。その頃はね、一番最初はルノーかなんかを乗り回してたかな。それで送ってくれたりいろいろしてくれて。でもあるときから先生(運転)しなくなってね。お酒も飲むし。
清 西村さんは…
荻・清 ペーパードライバー(笑)。
清 全然、一回も運転してないから。
荻 ねぇ。
清 師匠が運転している後ろに乗ってた(笑)。
荻 ああいうときいやぁねぇ、ほんとに…でもねココの人たちは決して運転上手くないの。もうほんとにね、静夫さんのに乗ってもねぇハラハラしちゃうし、榮夫さんのに乗ってもハラハラしちゃうしね、バックは下手だし「私ならもっと上手いのに」なんて思いながら
乗ってるんだけど(笑)。ほんとにねぇ時間かかるの。
バックでこう…あの、バックで短い距離の中に車を入れなきゃなんないときってあるじゃないですか、バックで。そのときの切り替えしがすごい下手なの。もうなんでー?なんてイライラしちゃったり(笑)。まさか私がやるわけにはいかないから黙って…(笑)。そのかわり榮夫さんの場合は丁寧に丁寧にもう、下手ではあるけど丁寧にやってるから時間はかかるけどねぇ、まあちゃんと入れますけどね。だからねぇ、早く若い人が運転したらいいのにって思ったけど、うちの人たちってあんまり運転しないのよね。

《一九六〇〜七〇年代の銕仙会》
荻 なんかね、優雅でしたよ。だって仕事は少ないし。
ねぇ。貴方が来た時だって少ないほうだと思うよ。
清 そうですねぇ。やっぱり、例会のほかっつったらそんなには…月に一回か二回。例会とあと別会的なものが…。
荻 そう、それしかなかったの、鉄仙会としては。最初の頃は春・秋と鉄仙会の別会やってたの。そのうちに秋だけの、年に一回の公演になりましたけど。あとは毎月の例会だけど…えー、七、八月は完全に休んでたでしょ。だから、例会だけやればいいんだから。最初にやらないかって言われたときに考えて、一月のうちに三分の一でいいなあ、三分の二はあそべるなぁって(笑)。それで私、まあいいや、じゃあとにかくやれるだけやって後は遊べるだけ遊んで(しようと思った)。その頃は華の会もまだやってたかな、やりはじめた頃、ちょっと手伝ったりするくらいが精一杯でしょ? あとは、他に催しなんてないんだから。今のように鉄仙会の人たちがみんなそれぞれに会を持つってこともなかったから。
編 地方の公演は頻繁にありました?
荻 ないないないないない。地方の公演は寿夫さんが京都で頼まれた、大阪で頼まれた、って行く程度。
編 地謡は?
荻 向こう(地方)の人。寿夫さんの場合はシテを舞うだけじゃなくて地頭にお願いしますっていらしたこともありますね。そういうのも全部単身。その頃まだ雅雪先生も現役だったから、雅雪先生も向こうに頼まれていくとかそういうことがあっても、鉄仙会のみんなが動いて仕事をするってことがなかった。あなたは何年に入ってきた?
清 (一九)七五年、かな。
荻 七五年、それじゃあね、六〇年代はほぼそんな状況だったかも知れないね。例会と別会程度。
清 他の会でいうと東京能楽鑑賞会とか…
荻 そうそうそう。あるいは外国人のための鑑賞会…
なんかそういう関連のみたいのがあった。だからね、東京能楽鑑賞会や外国人の鑑賞能はね、一九五八、九年から始まったかな。六〇年…昭和三十五年が六〇年でしょ、だから(一九)五八、九年には始まって…朝鮮戦争って何年? 一九五〇年ですよ。朝鮮戦争が非常に盛んな頃に外人能が成立したの。それは、米軍が日本に駐留してて、(小声で)だから外国人が多かったから。だから、一概に私はあの外人能ってのは何だったんだろうって…それは内緒よ。ほんとのことちゃんと私が調べなきゃいけないんだけど。朝鮮戦争と無縁ではない。
編 それは、お金を出してたのが…
荻 いやいや、お金をだしたのは観に来るお客様だから、別にそういうことはないけど、そういうことがつまり朝鮮戦争にいらした人は別に兵隊じゃないかもしれない。だってお金を出して観に来る人たちだから、ある種の階級の人たちだと思うのね。だけどそういう人たちが、日本に来て日本の文化に触れたってこと自体は大変に貴重なことだと思うのね。だけどそういうことが成立するのと戦争との関係っていうのも、一概には一口に言えないかなぁと思ったりね、してるんですけどね。だから、そのうちちゃんと調べてみようと思ってる。だからちょうどそのころが東京能楽鑑賞会とか外人能が出だして、それで鉄仙会の学生だって六〇年安保のあたりから七〇年くらいまでが、それこそ学生会員と称する三百数十人から四百人くらい(の会員数)を保持していたのはその十年間くらい。なぜが七〇年代を過ぎるととっとっとっとと落ちていって三分の一…とかね。なっていっていますけどね。

《当時の入場料》
編 西村さん・清水さんはその最後の世代?
荻 そうそうそう。
清 僕らのころは二百人くらい。
編 今から三〇年前くらい…
荻 その頃の学生券があって、一応入会金っていうのがあって、あのときいくらだったっけ?
清 ええと千円くらい。
荻 ですよね? そして、クーポン券を渡してその都度二百円とか三百円とかって払うわけだから、それこそ三百円とか四百円の金額で観れたってことは確かなんだよね。で、私がやりだしてた頃、いわゆる六〇年代からまだそのくらいかは十年間くらいは、映画館の料金ぐらいで能を観てもらいましょうっていうんで、それを一応ベースにして考えましたよね。で、別にそのとき能楽師が大枚のあれを払うことはなかった、出演料はね。ほんとに、例えば鉄仙会があったってみなさんタダに等しい金額ですよね。
編 お囃子方は?
荻 お囃子方は仲間内の基準ていうのがあったから、それはお支払いしましたけど。でも内々での支払いっていうのは出演料と呼べる程のもんじゃない。
編 トータルで赤(字)にならない程度?
荻 いやいや、でもそのアガリで生活していくのは無理でしょうね。そのときにほら、鉄仙会だって舞台があるわけじゃないでしょ、稽古場があってもそこで興行ができる舞台じゃないじゃないですか。ましてや学生が三百人も四百人もいれば、こんなとこでできないわけだから、大曲の観世会館とか、観世会館がなくなるころに宝生能楽堂でやってた。その日の経費は上りますよね。入場料から印刷代とかそれから宣伝費とか、そのころは入場税がかかりましたから税金払ってたんですよ、その都度。そんなことはその日の売り上げ、入場料費でそれらが賄える。
編 舞台使用料は?
荻 もちろん舞台使用料は出せましたよね。で、学生がそれだけ多いってことはつまり指定席の会員も結構いたんですよ。ただいたけれどその日によってお休みになるとそのお席が目立つってことはあるのね、どうしたって。その方は買い切りでそのお席を設けているんだから。だから空いてるから、ああもったいないな、帰してしまった学生さんにと思うけれど、それは正面のお席だし…
清 よく寿夫先生が、(見所が)いっぱいになって荻原さんがお客を帰したって、断るっていうとよく怒って…
荻 そうそう。
清 「そんなことしちゃダメだ」って。
荻 そう。いいんだから入れちゃえって言うけど、でも入れちゃったら今度指定席のお客様に怒られちゃうでしょ?
編 基本的に立ち見はなかったのですか?
荻 立ち見はありました。だから水道橋がいろいろと消防法でうるさくなる前は、学生さんに立ってもらったことある。けどあんまりね、それだって会場に迷惑かけちゃいけないから。つまり、そういうふうにしなければ他に収入がないわけだから。会の経営、つまり銕仙会で赤を出すわけにはいかないから、まあみなさん、つまり出演者はそんなに銕仙会だからといってたくさん出演料をいただくわけじゃなく、銕仙会を維持するということが、出演者にとっても第一の命題だったから、ということがあるでしょうね。とにかく銕仙会をいい会に盛り上げていくためには、例会をすることで、そこで出演料云々じゃなくてそれしかないわけだから、会としては。だからこの銕仙会の地盤を揺るがさないためには、そこでは出演料をもらわないでとにかく銕仙会をいい会にしようという協力の仕方ですよね。まぁ、まとまってたというかみんながとにかく一生懸命やりましょうっていうふうにいらしたことは確かですよね。
荻 その頃に比べると今は、舞台が多いっていうか、私は若い人たち含めてご自分たちでいろんな催しができるっていうのはかつてに比べたらとてもいいことだと思いますよ、それはね。で、それぞれの人がそれぞれのやり方でお客様を一所懸命開拓して、そしてやることができるってこと自体、とってもいいことだと思いますよね。ただ、んー…能がどうしても、三百人とか四百人とかせいぜい五百人のね、お客様で一回だけの公演で、ということのいろんな「無理さ」というのが、そのお金の面からいえば、大変大きいですよね。だけど…お金がかかるからといって入場料金をただ高くしていっていいかということがね、非常に問題ですよね、今ね。つまり、どういうお客様を獲得するかどういうお客様に観ていただこうとするかにもよるけれども、だからその料金と集客・方法・手段そういったものとどういった兼ね合いでいくかねぇ…。だから、出演料と全ての経費、そして入場料とのバランスっていうのをね、もういちどやっぱりほんとはちゃんと考え直さなければいけないのかもしれませんよね。だから、一万何千円あっても高くないというお客様もいらっしゃるのだろうけれど。だけど、とても一万円ではいけません、八千円でも私は行きません、っていう人だっているわけだし。そういうことをどういうふうに一日一回の催しの中で考えていくか。そしてそのときに、いまの出演料体系がいいかどうか、という問題もありますよね。
編 この舞台が高くないと思うかということと、自分が払えるかということが別問題で、乖離しはじめていると思うんですよね。いいものはいいのものと認めて、これだったらいくらでも払うと思えるのと、払えるかどうかは別問題ですから。
荻 それはお客様はね、安ければ安いほどそれに越したことはないんですよ。それこそ今でいうと映画館が千二百円〜千五百円じゃないですか、一般。シニアは千円ですけど(笑)。女性の日もあるようですよ。だからって女性とシニアで更に半額…とはいかないだろうけど(笑)。とにかくそうでしょ。それじゃあ千五百円で、かつてのように映画の料金と同じで良いかといえばそれは今の段階ではできませんよね、いろんな意味で。まだできない。で、世間のいわゆる芝居のね金額、商業演劇の金額、いろいろあるじゃないですか。そういう中で能が、能の人たちが、どういう志でもって観客に対して、いくらくらいの線でとにかくより多くのお客様に観ていただきたいと思うのか思わないのか、ことだと私は思うのよね。そのあたりはレストランなんかと同じですね。つくったものをいくらくらいで買ってもらえるかな、と。そのときにすごくいい材料であってもね、材料費が出なくちゃ絶対ダメなんだけど、でもこの金額で観ていただきたいっていう、やっぱり、能楽界全体を見て、あーあそこ一万五千円で売ってるからうちもそれでいいや、という決め方じゃなくて、お客様のほうにもう一度眼を、役者がもう一度お客様の眼に、思いを満たしてから値段をまた考えなきゃいけないんじゃないかしらね。だってこのまま、高ければ高いほどお客様がたくさん来るところはそれでいいわよね。だけど実際に今私が能をまだ観たことがない人とお話してると、「能って高いんでしょ?だってすぐ一万円するもんね」って。こういう返事が返ってくるでしょ、するとお能は果たして一万円の価値があるのかないのか、どこで私は考えたらいいのかしら、って思うのよね。そうすると今の能の役者さんたちは、お客が少なくても高い料金のほうがいいのか。で、お客様のもっと率直な眼がほしいのか、そこらへんまで問いただしたくなるような気持ちになっちゃいますよね。そしてよく世間で助成金をもらっていてもいいお値段の会があったりすると、そうでしょ? そうすると一体どういうことになるかしらって思うじゃないですか。助成金もらうってことは、やっぱりねぇ、還元しなければならないし、それはやっぱりより安く皆さんに見せてあげるために助成金をもらって、自分たちの負担を軽くしようとするわけだから、それはやっぱりなるべく安く提供しなきゃいけない。安く提供したいがために助成金がほしいわけですよね。だからそういうこともね、ほんとに、お客様と自分、能の役者である自分をもう一度ちゃんと見定めることっていうのは大事なんじゃないですかね。

《銕仙会の記念日のこと》
荻 今の銕仙会の建物を立ち上げるときに、初めてコンクリートの打ち放しを打てたのが十二月の二十五日でした。それを普通の家屋で言えば、棟上げ? に近い日だったんですね。その十二月二十五日は霙のような寒い日だったんですよ。ところが建てた現場の人たちがほんとに喜んでいたの。私はこっちの側にいるから、とにかく早くやってもらわにゃ困るとか、これじゃ高いとかもっとこうしなきゃダメだとかやっていたんだけど、とにかくそのときに彼らは非常に感動してたのね。それで、建ちあがって、翌年の四月に竣工式をやったのね。だけどそのとき私は、あぁ、あの二十五日じゃない二十六日か…、二十六日にあの感動をここを建てた青年たちに最後まで持ち続けてほしいなと思ったの。それで、ある日目が覚めてから、あっ、あの日を銕仙会の記念日にしようって思ったの。それで次の日朝やってきて、「榮夫さん、十二月二十六日は銕仙会の記念日にして、あのとき工事に関わった全ての人たちにその日に来ていただいて、そして銕仙会はその日だけでも、みなさんにごちそうしたいんだけどどうかしら」って言ったら榮夫さんが「あゝいいじゃない。それいいじゃないか」って言ったんで、それからその年の十二月二十六日から工事関係者の皆さんに集まってもらうようにしたの。そしたらもう二十年以上経つのに、毎年必ず来てくださる。もう皆さん二十年近く経つかなぁ、建てて鉄管工事にあたった人たちは二十代、二十代の若さからもう四十代そこそこになったかな、あのときのチーフでも。それで彼らも「ぼくらの青春時代のほんとにいい仕事でした」って喜んでくれて、私としては毎年来ていただけるなら、ご自分たちがこの仕事をしたこの建物がどれだけ元気でいるか、それを見て欲しい。そして見ていただくためには、銕仙会のみんながこの建物を大事に使わなくちゃいけない。その建てた人たちの気持ちをどんなにか受けて、どんなにかきちっと管理しながらいい形でつくって欲しいってことを、工事の人たちに伝えることが、また工事をした人たちの喜びでしょう。そういう関係をつくっていかなければ、ほんとにやっぱり、みんなが苦労した意味がない、だからそうしようってもう決意しちゃったの。で、もう二十六日になると、記念日ですよって、私が辞めてからもずっと事務所で伝えてくれるので、その日はなんにも入れないで、いつも十二月二十六日とっておきますけど、よんどころのないときは仕方ないけど、あと、皆さん出して全館ずーっと見てくださって、そして、また普段使っている人たちもなるべくいろんな提案や問題点を出しておいてもらって、そして、ここがこんなふうだけどどうかしらねとか、建てるときにあそここうだったけど大丈夫なんだろうかとか、いろんな厄介な質問とかあるし、だからよく使ってるときにはお褒めの言葉もあるし、あそこはもうちょっとこうしたほうがいいよってこともあるし。だから銕仙会は、記念日をつくったことによって、二十年近く経ってもこの建物は主治医を抱えている。というふうに私は思っている。若い今の役者さんたちも来て欲しいと思っているんだけどなかなか来てくれないの。そこが問題なんですけどね。まぁでも
そんなこと言っても自発的にいらっしゃれば、です。それは実際に工事に携わった人たちはわかってて、来ることを望んでいますよね。まあ、榮夫さんが来てくれてたけど、今やもう銕之丞さん。銕之丞さんは毎年毎年出てくださってるけど、みんなで楽しい会話をしますけどね。だからそういうことで、私はこの建物がいろんなことで、とっても幸せな人たちに巡り会って、出来上がって、だからほんとに、大きな怪我もなくきてるから、もう…うれしいですよね。
 やっぱりこの建物が銕仙会の活動の拠点という感じにね、なってるし。ここでほら、大岡(信)さんの詩の発表会とかいろんな広がりが…みたいなもんで。
 この建物になったことによってね。だから、これまで私が銕仙会にお世話になって、いちばん大きな事というのは寿夫さんが亡くなったってことと、もうひとつはこの建物が立ち上がって、やっぱりそれまでとは違った活動が、これを拠点にしてできるってことは、非常に私にとっては大きな、仕事ですよね。●

荻原達子 おぎはら・たつこ
能楽プロデューサー。1934年、長野県岡谷市生まれ。東京女子大学短期大学部卒、能楽書林の編集部に勤務ののち、社団法人 銕仙会の事務局長。定年退職後、同人組織の能楽座のゼネラル・マネージャーを務めた。2007年5月没。
   【寄稿】茂山千之丞氏 寄稿「お能・お狂言」
 私の嫌いな言葉です、お能、そしてお狂言。─「お歌舞伎」とも「お文楽」とも言わないのに、それから「お雅楽」という言葉もないのに、どうして能と狂言に限って「お」をつけるのでしょう。僕は十年くらい前まではこの「お」は「おコーヒー」「おビール」の類の「お」だと思い込んでいました。しかしどうやらそうではなさそうだ…ア! これは「お触れ書き」や「お達し」の、そして「お手討ち」の「お」だと気が付いて、この呼び名がとても嫌いになったのです。
 ご存じの通り、江戸時代、能と狂言は徳川幕政の中に取り込められて、それが上演されるのは城内の能舞台で殿様の命によって開催されるものの他はめったにありませんでしたから、一般庶民からは殆ど隔離された状態でした。ただ例外として「町入り能」等と呼ばれるものが間々ありました。名主・お出入りの大商人といった農民や町人が殿様の思し召しによって特別に「拝見」を許されるのです。謂わば「お下賜品」と同様の能であり狂言ですから、当然「お」を冠して呼ばざるを得なかった…。僕はそんな風に推論しています。そして僕はそれ以来、以前にも増して「お狂言」じゃない「狂言」を演じることに努めています。
 ここでも又推論ですが、観世寿夫さんは「お能」ではない「能」を志向して演じていられたのではないかと僕は思っています。榮夫さんもそうだったに違いありません。
 榮夫さんの薫陶のもとに、そして彼の良きアシスタントであった荻原達子さんの助言によって発足し、充実した舞台を創り続けて来られた「響の会」も亦、「お能」ではない真の「能の華」を咲かせて下さることと、大いに期待しています。●

茂山千之丞 しげやま・せんのじょう
1923年生まれ。十一世 茂山千五郎の次男。1925年「以呂波」のシテで初舞台。1946年に二世 茂山千之丞を襲名。1993年観世寿夫記念法政大学能楽賞、1995年芸術祭賞演劇部門優秀賞、1996年芸術選奨文部大臣賞ほか受賞多数。著書に『狂言役者 ─ ひねくれ半代記』(岩波新書)、『狂言じゃ、狂言じゃ!』(晶文社)。
   【対談】小田幸子氏×清水寛二「昭君をめぐって」
小田幸子(以下、小田) 私の関わった梅若六郎さんとの課題曲の運動は、草創期の能のリアルな表現から引き算して今に至った演出を、もう一度辿ってみるというものでした。昔の形に戻すことで、役者にとって同じ型の繰り返しをやるだけではない、再発見がありました。そういう意味で今回の清水さんの意図を伺いたい。
清水寛二(以下、清水) 辿る、ということはあります。能の成り立ちようを探るというような。発見としては、この能は幽霊が出てくるということで言えば夢幻能ですけれど、実は現在能だなと。
小田 と言いますと?
清水 昭君らは現在能の中の、尉と姥のやり取りの中に出てきたものなのだと思います。鏡の中の映像として。そして尉と姥は、多少物狂いの気を帯びていると言ってもいいかなと。ただ悲しいというのではなくて、昭君を呼び出す強い思いがあっての能だと、今日の申し合わせで感じました。
小田 この能は、鏡の中の映像が舞台にあるだけで、実際は昭君や呼韓邪単于はいない。そこが面白い能ですよね。鏡の中に見えていることが舞台に投影されている。「鏡の能」と言われる所以でしょうか。呪術的な側面も感じます。鏡に関して今回何か発見は?
清水 常だと鏡を取りにいくのに、正中(舞台中央)から立ち上がって自分で常座まで取りに行っていたわけです。今回は鏡を柳に据えつけるようにするのですが、取りに行くのに最初の稽古の段階では常座まで取りに行っていたんです。銕之丞師から「そこまで取りにいくことはないのでは」というお話が出まして、鏡の話になったときに持っている状態にしたらどうか、ということになりました。
小田 それはいい演出ですね。鏡のクローズアップが舞台の上でなされますね。
清水 鏡を持つタイミングも常よりも早くなります。
最後のところも、昭君が一の松で鏡を見て、尉と姥の方も立って鏡を見て、おしまいになると。鏡を見ている中で終わる。尉と姥はあくまで鏡を見ていると。直接呼韓邪単于を見ているのではなくて、鏡に向かっているという設定にします。
小田 そうすると、鏡の能ということが非常にはっきりしますね。
清水 柳の作り物というのは、どこかに書き物が残っていたのですか?
小田 ええ。六郎さんとの課題曲の時は、研究会を持ちまして、岡家という金剛関係のワキ方の家にある『観世流仕舞付』という詳しい型付けを参照しました。最近、藤岡道子さんによって出版されてもいますが、その中に枝分かれした柳の木が出てきます。それを使ってみようということになったのです。〈昭君〉は「柳の能」という異名もありましたし。そのときは鏡を柳に懸けたのではなくて、持って出たように思います。柳の作り物は、下間少進の『舞台之図』などにも出てきています。岡家のものにも柳の片方は枯れているという記述もありましたし。ストーリーの中でも柳の話が出てくるので、作り物も出した方がいいのでは、という話になったんです。鏡も非常に重要だし、両方出そうということになって。このときの問題は、柳に隠れて舞台が見えにくくなるということでしたね。それを解決したのが、梅若万紀夫(現万三郎)さんの〈昭君〉で、柳の作り物の中に入ったわけです。そうすると、見所からも見えやすいということでした。課題曲のときは尉の姿を割合に中国人風に工夫したんです。淵明頭巾などで。
清水 今度も淵明頭巾は着けようと思っています。寿夫先生の舞台写真でも淵明頭巾を着けられていますね。
小田 そうですね。寿夫さんは「護法型」でなさろうとして、実現できなかったということがありましたよね。昭和三十年代でしたでしょうか、横道萬里雄先生と表章先生の岩波の『謡曲集』が出ましたでしょ。その〈昭君〉の解題で、これは本来は尉が退場していなかったのだと。それが〈護法〉という作品に近いので、「護法型」と名付けられたという経緯がありました。それが〈昭君〉への注目が高まった一つのきっかけになったのでしょうね。それを受けて寿夫さんの復曲があったのでしょう。
清水 寿夫先生も何度か「護法型」で演じようとしたけれども、反対されて出来なかったという話が伝わっていますね。
小田 堂本正樹さんが書かれていますね。
清水 悔しさから涙を流して舞台に上がったというような。このときは(響の会のチラシ所収の写真。昭和四十六年の舞台のもの)それが実現したときのものです。昭君も大人の役者がされています。最近は昭君も舞を舞っているケースが多いですね。舞うと色気も出ますし、お客様へのサービスにもなるかもしれません。今回は子方ということもありますが、舞は無しです。
小田 課題曲の時はなるべく異国情緒を出そうという意図があったので、呼韓邪単于も黒頭を尊髷に結って、剣を背負って、詞章に「さね葛にて結び下げ」とありますから黒頭を結い下げたんです。かなりリアルな扮装でしたね。裲襠(りょうとう)も着けましたし。記録に残っている演出は全てやってしまおうという意気込みでした。
清水 今回、裲襠は着ると思います。
小田 やはり裲襠を着たりすると、目先が変わって異国の人と結婚したという印象が強くなりますね。もう一つ工夫したのは最後の部分です。先に呼韓邪単于が帰ってしまって、昭君が一人で残って留めるという形では、特に子方ですと留まった感じが出ないという話になって。別に昭君と呼韓邪単于の仲は悪かった訳ではない、結構いい夫婦として暮らしていたはずだと。確かに故郷の両親は悲しんだかもしれないけれど、自分たち夫婦はこうやって仲良くやってきましたということを見せに来たという意味もあったはずだから、何もさっと帰るのもおかしいじゃないかと(笑)。それを表現するために最後幕の近く、一の松辺りで呼韓邪単于が待っていると。そして昭君と一緒に幕に入るという形にしたんです。そうすると印象も変わってきて、いかにも作品が終わったとう形になりましたね。そのことはよく覚えています。それが課題曲のときの新しい工夫で、他はこれまでの型付けにあること、昔やっていたことをやってみようという意図でしたね。とにかくやってみようという気持ちが強くて、鏡の前を回ったりもしましたね。今回ですと鏡の前を回るのは大変でしょう。
清水 そうですね。そうでなくても人が多い能ですから。
小田 実際に試したからこそ、しなくてもよいということも発見できましたね。〈自然居士〉で舟を出す演出もそうでしたね。舟を実際に出してみることで初めて今の能の表現が分かってくるということがありましたね。今回の清水さんの〈昭君〉もその意味で非常に楽しみですね。
清水 随分古い能ですよね。
小田 ええ。金春権守の作とも言いますから。〈海士〉と並べると面白いと思います。〈海士〉も現在能ですが、そこにそのまま幽霊が現れる。夢幻能が完全に出来上がる前の作品で、古い霊の登場の仕方がよく分かります。能というものは、初めから無媒介に亡霊が出てくるものではなかったのでしょう。能の形式が完成してからはそれが当たり前になりますけれど。でも昭君は、「娘はどうしているんだ、形見の柳が枯れてるじゃないか」という強い現世からの働きかけがあったからこそ、鏡に映ることが出来た。すると見たことも無い凄い格好をした婿(呼韓邪単于)まで出てきたので驚いたということでしょうか(笑)。夢幻能と現在能ですと、ご自身の身体感覚も変わりますか?
清水 ええ。〈松風〉のように幽霊が二人出てゆく曲とも違うと思います。現在能として二人が出て行く。実は難しい能です。
小田 昭君を子方が演じることに関しては?
清水 子方の方が、かわいらしさと、かわいそうなところはお客様に受け取って頂けるかもしれない。子供というのは、親から見れば、どこか小さい頃のままでいるような気がしますから。
小田 普通のお芝居性を色濃く残した能とも言えますよね。親子、夫婦の恩愛が大事にされていますし。その点と今の能の様式とのバランスはどうお考えですか?
清水 そうですね。舞台の周りにいろんな役が居て、その人たちに映った映像として演じるにはどうすればよいか。シテだとかツレだとかにとらわれず、曲全体の中で尉や姥という役を考えたい。シテだ、という感じではなくて、一人のおじいさんとして舞台の中に居られれば。
小田 そうするとシテだけが注目される夢幻能とも違ってきますね。
清水 ええ。色んな試みがこれまでされてきた曲ですが、もう一度原点に戻って考えてみたいのです。シテの演技術自体の見直しということも含めて。現在能の謡い方についても、夢幻能の謡い方とは違う技術が必要だと思います。ワキの方の謡を聞きながら、なかなかああは謡えないなと思ったりします。彼らは現在の人間としていつも謡っている。そういう技術も会得しつつ、シテ方としての現在能というものを作っていきたい。
小田 〈昭君〉上演のきっかけを聞かせてください。
清水 実は、私の初めて見た銕仙会の能が〈昭君〉なんです(笑)。四月に大学に入学して、初めて見たのがこの曲でした。とにかく初めて見た能でしたので、細かい所までは覚えていません。でもインパクトというか、舞台に創造の力が溢れていましたね。ああ能って凄いんだなと。そういう舞台を目指したいですね。
小田 復曲という試み全体に関しては?
清水 伝承されてきた型の正しさももちろん大事ですが、曲としての面白さを大切にしたいですね。
小田 そうですね。
清水 演じる側も見る側も面白いものが理想だと思います。演じる側も作ってゆく過程でいくつも演出プランが沸くということが現にあります。
小田 復曲を作ってゆく過程を考えると、型の演出意図というのは明確になっていることが多いのですけれど、その型の中身を埋めてゆくのは生身の役者なので、意図と成果にずれが生じうる、ということがありますね。
清水 それはありえます。
小田 新演出の価値と役者の演技力の両方が問われるのだと思います。最近は能楽界も新作能の方向に動いているので、復曲の数は減ってきたように感じますね。
清水 復曲は下火になってきました。やはり新作が多いですね。
小田 それはどうしてでしょう。
清水 見直しが出来る復曲が一巡した、ということもあるでしょうか。
小田 見直し、復曲を行う過程が大変ということもあるでしょうね。台本の検討から入りますから。課題曲運動のときは現行曲の見直しがテーマでしたから、大変でしたね。演出資料として、元になるものがはっきりしているものを扱いましたから。私自身が報告した事例でもあったのですが、〈大江山〉で行った、実際に鬼の生首を出すという演出はいかがでした?
清水 銕仙会でも二、三度させて頂いています。実際に生首が出てくる生々しさがありますよね。実際に能の表現としてこういうことがあったのか、という驚きもありますし。
小田 鬼退治の生々しさですよね。復曲の作業のときは、その気持ち悪さを現代にも残しておきたいという思いもありました。
清水 古い演出をやってみることで、現在の能が持っていない具体的な表現の力というものも感じます。かつて持っていた能の表現を、現在の能舞台で演出することの難しさも出てくるでしょうし。生首を新面で作ると、物としてはあまりに作り物めいてしまう、ということもありますから。
編集部 多くの演者とやりとりしながら復曲作業を出来る役者、というのも限られるように思いますが…。
小田 それもありますね。清水さんも響の会だから出来る、ということもおありでしょう。大変なことと思いますが。
清水 非難されるのも覚悟で、というのでなければ出来ない面はありますね。それに復曲を行うことで、かつて能が持っていたような生々しさも表現できる演技の幅が必要だと痛感します。肚っていうのかな。先ほどの〈大江山〉ですと、実際に生首を掲げるのはワキなんです。シテが退治された後の場面ですから。それでもその演出を含んだ全体の能の作りはシテが準備しなくてはならない、ということでしょう。
小田 復曲もそうですが、滅多に上演されない曲もやっぱり見たいですね。
清水 私もそう思います。能の上演数が増えてくるほど、演じるのに労力のかかるいわゆる「遠い」曲は手がけられなくなりますね。もう少し若い世代も作品を見直したり、研究したりということにもっと意欲的であってほしいと思います。●

おだ・さちこ 能・狂言研究家/法政大学非常勤講師
2007年5月8日 銕仙会能楽研修所にて
〔編集・長谷部好彦〕
   【リポート】あづちりこ氏「mixed jam ~ 響の会の集い」
 この日のあづちは、やや緊張した面持ち。市ヶ谷を降り立ち、目印のTULLYSで一息。
 ソルティキャラメル片手していると、ばらりばらりと人が通り過ぎる。時計を見ながら、甘さ味わう。
 西村先生があづちの視線を横切る。ありゃ。そろそろお店を出るかな。あづちも後に続く。
 市ヶ谷喧騒の裏側は静寂の住宅街。まさにビルに隠れている。八幡様があるなんて全然知らなかったな〜。
 あづち、初めての参加、初めての顔合わせ、おそるおそる。
 銕仙会、響の会とひも解いてみるとそれなりのお付き合い。しかし、銕仙会のシテ方の先生達との直接的な触れ合いは初めてだ。こじんまりした集会所。人数は十名くらい、少ない!
 長テーブルを整えるのを手伝いながら、ちゃっかり両先生の近くに着席。参加者の皆様、いろいろ。
 机上に資料を並べたり、凄いなあ。あづちはメモ帳くらい。資料はゼロ。資料は両先生の話で十分である。
 自己紹介から始まるというのも「響の会の集い」ならでは? あづちは思い起こすとレクチャーくらいしか参加していないので、自分のプライベートな情報、それこそ名さえ名乗らない事も多い。あづちはいつものように年間百番目標と、囃子方への愛情を述べた(ように思う)。
 今回は「清経」「野宮」が題材のはずだったけど、横浜の話、国立の話、亡くなった榮夫先生、荻原さんのお話、亡くすという重みが両先生から伝わってくる。トーンダウン。思い出話に脱線する。
 「清経」の恋之音取、小書きのお話。ずいりずいりと笛がやや地謡の前に出て息継ぎをする。静寂と音色の間をぬって足音もなく橋がかりを移動する。
 「野宮」六条御息所、清水先生は「六条さん」という。そーいえば先生の「葵上」も国立で見たなあ。あづちもあのプライドの高貴さ、隠し持つ恥じらい、透明さ、複雑な感情のもつれ。好きだなあ。女の性に見え隠れする「業火」。手のひら、指先の扇でどれだけのものを表現できるだろうか。
 集いはきっちり時間通り終わる。皆様そそくさとお帰りになる。日曜だもんなあ、そうだよなあ。
 あづちはちゃっかりと二次会にも合流する事に。長テーブルではなく普通のテーブルを囲んで両先生とお話する事に! おいしいおつまみにビール! 緊張はやや取れてもう少しオープンになるあづち。
 あづち百番についてチケがなかなか取れない、同じ曲が同じ月に重なる、などなど話す。
 お酒が進み、時間も進む。少し酔っ払ってきた両先生がまたおもしろい。でも話は能の事だ。
 清水先生に「顔は知っている」と言われた事、やはりしょっちゅう能楽堂にいるからな〜。控えめ心していたはずなんだけど(汗)でもうれしかった。先生達とこれだけ和めるのっていったい!? と思うほど和ませて頂きました!
 お開き後片付けはきびきびと進み、ふたりとも洗い物しているし。あづちは玄関のネコと遊びながら。
 八幡様の真下の集い。神様の足元で一杯。●

◇あづちりこさんは能鑑賞記録等をブログに綴っています。URLはhttp://ricoazuti.at.webry.info です。是非ご覧ください。
   【リポート】第18回 響の会 公演報告/アンケート
 去る平成19年9月22日に、宝生能楽堂において、第18回 響の会(能〈清経 恋之音取〉シテ・西村高夫/舞囃子〈菊慈童〉シテ・観世銕之丞/狂言〈箕被〉シテ・野村万作/能〈野宮〉シテ・清水寛二)が開催され、おかげさまをもちまして、盛況のうちに終了いたしました。
 この場をお借りしまして、ご来場いただきました皆様に篤く御礼申し上げます。
 このたびは、観世榮夫師追悼といたしまして、ロビーに師の写真を飾らせていただきました。1996年・第二回研究公演・能〈弱法師〉シテ、2000年・第12回研究公演・袴能〈通小町〉シテ、2005年・第16回研究公演・袴能〈砧梓之出〉シテの写真を展示いたしました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
 なお、当日は受付が大変混雑し、ご来場いただきましたお客様にはご迷惑をおかけしました。この場をお借りしましてお詫び申し上げます。
 また、当日ご来場いただきましたお客様の総数は426人でした。
 今後ともよりよい企画・制作の参考とさせていただきますので、ぜひとも皆様の忌憚のないご意見・ご感想をお寄せください。●
〔文・米田幸子〕

公演アンケートはこちら→
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